「わしも保険をやって、お金を集めたいな」

ソニーが生命保険、銀行などの金融ビジネスに参入したのも、盛田さんにとって必要な「手段」だった。

ソニーは1979年、米プルデンシャル生命保険との合弁会社を設立して金融ビジネスをスタートした。現在のソニー生命保険である。2001年には、ネット専業のソニー銀行を設立している。盛田さんは、早くから金融ビジネスに目を向けていた。

「本当は最初から銀行をやりたかった」という話もあるが、私は60年代に盛田さんが保険ビジネスに興味を持っていたことを知っている。アメリカで盛田さんと一緒に動き回っていた頃、二人でコーヒーを飲みながら休憩していた。すると盛田さんが、ビル街を見回しながらつぶやいた。

「どこへ行っても、一番でかくてきれいなビルは保険会社だね。わしも保険をやって、お金を集めたいな」

私たちは業務用ビデオ機器を販売するため、あちこちの会社にセールスで回っている最中だった。テープレコーダーやビデオのメーカーが保険をはじめるなんて「突拍子もないことを言うもんだ」と思って聞いていた。ソニーが生命保険のビジネスをはじめると知ったのは、シンガーにいるときだった。「盛田さんはあのとき話していたことを本当に実行するのか」と驚いた。

経営状況が厳しくても画期的な本社ビルを建てた

ソニーの設立時から、井深さんの思いを実現するために盛田さんが一番苦労したのは、資金繰りと知名度だった。

ソニーらしい製品を開発して販売するにはキャッシュが必要であり、ソニーのブランド力がなければ製品を買ってもらえない。とくにお金の面では、倒産が心配されるほどの危機が何度かあり、かなり苦労したようだ。

郡山史郎『井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力』(青春新書インテリジェンス)

盛田さんは経理、財務が得意だったわけではない。ソニーには、実家の酒造会社からきた優秀な経理マンたちがいた。設立時にお父さんが「資金繰りに苦労するだろうから」と信頼できる番頭さんたちを送ってくれたのだ。父である14代当主の久左衛門さんは、知多半島の小鈴谷から名古屋に進出し、資金繰りや販路開拓に苦労したらしい。お金の苦労を知っているから、設立したばかりのソニーに優秀な番頭さんを派遣してくれたのだろう。

ソニーがお金で苦労した時代に、資金面でも援助を受け、盛田さんの実家がソニーの筆頭株主だった時期もある。銀座五丁目に「ソニービル」を建てたときも、一時的に経営状況が厳しくなった。1966年のオープン当初、ソニービルは話題を集め、ソニーのブランドを高めるうえで大きく貢献した。

モダニズム建築、日本一速いエレベーター、外壁に2300個のブラウン管をはめた電光掲示などで銀座の新しい観光名所となったのだ。知名度の高さは販売力につながり、知名度を高めるにはお金が必要となる。目的のために、あらゆる手段を講じるのが盛田さんだった。

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