暴漢に襲われたモスクワ支局員時代
99年4月から2001年8月まではモスクワ支局員として赴任したが、似たような状況は続き、治安も安定しなかった。
零下20度近い雪のモスクワで01年2月の夜中、支局での夜勤を終えて徒歩で帰宅途中、私は暴漢に襲われ大けがをした。気を失い、金を奪われた。財布からドルだけが抜かれ、ルーブルは残っていた。治療で1カ月仕事を休み、多くの人に迷惑をかけることになった。ロシアのある新聞は、支局が入った建物の駐車場に積もった雪の上に、АСАХИ(朝日)の文字と髑髏マークが描かれている写真を掲載し、ネオナチの犯行を匂わせる事件記事を1面で大きく報じた。
モスクワの日本人社会に動揺が走った。その後しばらくして、その絵柄はカメラマン本人が描いていたことが判明し、新聞社に抗議を申し入れる出来事もあった。
この事件で私が入院していたときのことだ。若い捜査員が犯人のモンタージュを作りにパソコンを持って病室にやって来た。かすかな記憶を頼りに、パソコンに入力されている様々な髪形やあご、耳、口、目の中から一番近いものを選び、組み合わせていく。パソコンを起動させて間もなくすると、画面に縦線が入って動かなくなった。「パソコンが古い。部署に2台しかない。資金不足で新品は買えないのです」と捜査員はぼやいた。文字盤パネルを外し、ナイフで配線をいじり、パソコンの下に本を挟んで斜めに立てたりしていると再び動き出した。
混乱した社会を生き抜くロシアの人々
財政難→捜査不十分→検挙率低下→犯罪多発→財政不足(財政難)、の悪循環を思った。できあがったモンタージュは、まぶたに残る犯人像とは似ても似つかない。検挙など絶望と悟る。被害調書が仕上がると、捜査はそれで終わりという感じだった。
「もうロシアは嫌になっただろう?」と現地の日本人から何度か尋ねられた。その度に、ぽんこつパソコンと悪戦苦闘する捜査員や、目を真っ赤にして革ジャンの血のりをふき取ってくれたお手伝いさんや、「ロシア人として恥ずかしい」と謝ってくれた医師たちの顔が浮かんだ。この混乱した社会を生き抜かなければならないロシアの人々を、私はとても憎めなかった。ロシアの文豪トルストイやドストエフスキーの世界を見ているような感覚さえ覚えた。