※本稿は、副島英樹『ウクライナ戦争は問いかける NATO東方拡大・核・広島』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
ロシアの「屈辱の90年代」
ソ連末期のペレストロイカ(改革)からソ連崩壊を経て、混乱する社会経済状況を引き継いだ新生ロシアのエリツィン大統領は、民主化の号令のもと、「ショック療法」と言われた急進的市場改革を進めた。それが「オルガルヒ」という新興財閥の台頭を招き、その影響力は政治をゆがめていく。
医療費や教育費、家賃などの負担がのしかかるようになった庶民は「弱肉強食の資本主義」を味わわされ、デノミ、給与遅配・未払い、汚職の蔓延などの苦境にさらされ、惨めな思いを体験した。混乱を抑えきれなかったエリツィン氏は99年末の辞任演説で、「明るい未来には一挙には行けなかった」と国民にわびることになる。これが「混乱の90年代」や「屈辱の90年代」と呼ばれる時代だ。
日本では長期政権を築いた安倍晋三元首相がしばしば、かつての民主党政権時代を指して「あの時代に戻りたいのか」と言っていたが、プーチン氏もよく「あの時代に戻りたいのか」と口にした。それの意味するのが「屈辱の90年代」である。ロシア国民が「自由」を制限されても「安定」の方を優先し、それがプーチン支持の基盤になっていると言われるのは、この「屈辱の90年代」を恐れるが故なのだ。
硬くて食べられない肉や白菜
その90年代のロシアに私もいた。会社派遣の語学留学で96年8月から97年8月まで、モスクワ大学付属の語学センターでロシア語を学んだ。大学の教室は机も椅子も雑然とし、トイレは汚れて便座はなく、建物の10階ぐらいでも旧ソ連製のエレベーターを待つよりは階段で降りる方が早かった。
モスクワ大学の寮はトイレもシャワーも共用だったが、突然の断水や、冬場にシャワーの途中で温水が出なくなることも多々あった。寮の食堂の肉があまりに硬く、アルミ製のフォークが曲がってしまったこともある。
露店で緑の野菜を見つけたら、そのとき買っておかないと後で後悔したものだ。ただ、冬場に露店で白菜を見つけ、すっかり凍っていたが鍋で煮れば大丈夫だろうと思って買って帰ると、煮ても硬くて食べられなかった思い出がある。
地下鉄の出口には、古着や花を手にしたおばさんたちが物売りのためにずらりと並んでいた。子どもから老人まで、街には物乞いがあふれていた。
化粧をしている女性は少なく、ジャージ姿の女性が目立った。売春をしないと生きていけない境遇の女性も大勢いた。旧ソ連型ホテルの従業員も警備の警官も売春システムの一部に組み込まれていた。大学の教授は職にあぶれ、“白タク”の運転手で日銭を稼ぐしかない。給与遅配の警官たちは家族を養うため、頻繁な“ネズミ捕り”に繰り出し、袖の下を受け取って糊口をしのいだ。