地下鉄車内で表紙のカバーを外して読んだ

本当にそうなのだろうか。地下鉄の中でかばんから本を取り出すと、周囲の乗客から妙な視線を感じた。この国では車内で本を読むとき、日本のようにカバーをかけてタイトルを隠すことはない。イギリス人は、自分が何を読んでいるか他人に知られることを気にしないし、そもそも誰も関心を払わないのだ。例外は大人気作「ハリー・ポッター」シリーズくらいだろうか。発売日に書店で新作を手にした子どもは誇らしそうに電車やバスの中で本を広げ、周りの人は覗き込んで「徹夜して並んだの?」などと話しかけ、車内は盛り上がっていた。

『スペア』がハリポタに迫るほどの初日売上数を達成したのなら、このようなシーンが見られても不思議ではないはずだが……。記録破りの売上数という報道と、車内に漂うひんしゅく感や、ちまたのしらけた空気とのギャップが解せない。ハリーの顔写真がデカデカと載った表紙のカバーをそっとはずし、背表紙も見えないよう膝の上に本を広げて読み始めた。

兄の「予備」として生まれたハリー

本のタイトル『スペア』は、「予備」「代替」を意味する。ハリーは、王位継承筆頭者であるウィリアム皇太子の身になにかあった場合の“予備”という運命を背負って生まれた。英国王室では出生順に継承順位が定まる。昔は男子が女子よりも優先されたが、2013年からは性別にかかわらず出生順になった。

ウィリアムに子どもが生まれ、ハリーの継承順位は5位まで下がった。スペアの立場はとうにお役ご免となっているにもかかわらず本のタイトルに据え、兄の予備としてどれだけ不公平な扱いを受けてきたかを繰り返し文中で訴えている。プロローグからして、「王室離脱の発表後にウィリアムと父チャールズ3世国王から居所裏の庭に呼び出され、口論になった」というエピソードから始まっているくらいだ。

文体はリラックスした語り口で会話文が多い。チャールズは「パー(パパの略)」、兄ウィリアムは「ウィリー(イギリス英語の俗語で男性器を指す)」など、家族間の愛称が使われ、難しい言い回しも少なく平易に読める。というか平易すぎて浅い。とても故エリザベス女王には聞かせられないような言葉もポンポン飛び出してくるし、トーンはまるっきり友達同士の会話のようだ。王室の舞台裏、自身の恋愛や性体験、酒と麻薬に溺れる日々の描写なども盛りだくさん。あまた出ているセレブの自伝本とそんなに変わらないような印象を受けてしまう。

しかし、心の底から気の毒だと感じたのは、早くに母を失ったことで受けた心の傷だ。

写真=冨久岡ナヲ
『スペア』の裏表紙には子どものころのハリー王子の写真が。ユニフォームの胸には、王室離脱で返上した「HRH(殿下)」の敬称がついている