大坂城、名古屋城との決定的違い

このように江戸時代を通じて重要な軍事拠点であった姫路城は、3重の堀に22の城門がもうけられ、その多くは方形(枡形)に周囲を囲んで2つの出入り口をもうけた枡形虎口だった。

しかし、江戸城や徳川大坂城、名古屋城などにも通じる、その整然とした近世的な城門の姿は、建造物や石垣が折り重なった、われわれが見慣れている姫路城の重層的な景観とは異なっていた。

実際、内堀の内側の内曲輪に入ったのちは、このような典型的な枡形虎口には出会わない。論より証拠で、内曲輪を天守に向かって歩いてみたい。

注目すべきは石垣の積み方

俗に大手門とよばれる、昭和13年(1938)に設置された桐外門(歴史的な門とは形状も大きさも異なる)を抜けると広大な広場に出る。

ここが三の丸で、江戸時代には城主の休息所と迎賓館を兼ねた向屋敷が東側に、2代将軍徳川秀忠の長女、千姫の居館だったという武蔵野御殿が南西に、そして西の高台には、藩庁と城主の居館を兼ねた本城が建ちならんでいたが、明治7年(1874)、歩兵第十連隊の兵舎を建てるために、すべて撤去されてしまった。

だだっ広い三の丸広場をとおり抜け、有料区域に入るとそこは二の丸で、「菱の門」にむかえられる。縁に黒漆が塗られた釣鐘型の華頭かとう窓がしつらえられ、金の飾り金具が打ちつけられるなど、古風な装飾がほどこされた櫓門である。

2009年秋の姫路城(写真=CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

だが、門をくぐる前にその東方の石垣を見ておきたい。自然石がほとんど加工されないまま積まれた古式の「野面積」で、大型の築石つきいしが混在している。

また、隅角部は直方体の石の長辺と短辺を交互に積み重ねていく「算木積」(この技法は関ヶ原合戦ののちに急速に発展した)がまだ見られない。つまり、羽柴時代に築かれたことがわかる。

そのさらに東方の上山里曲輪を囲む2段の石垣は、自然石をそのまま積んだことがいっそう明瞭だ。羽柴時代は石垣による築城の草創期で、高石垣を積む技術が未熟だったために、低い石垣を2段にすることで補ったのである。