現人神から象徴となった天皇

世論調査の結果でも、平成の時代に入ると、天皇に対する好感度は一気に上昇し、時代が進むにつれて、天皇を尊敬する割合が高まった。天皇に反感を抱く人間は、平成の終わりになると、ほとんどいなくなる。象徴天皇制は、平成の時代に広く国民に受け入れられたのである(涌井秀行「昭和・平成・令和の天皇の代替わりと戦後日本――戦後権威・権力としてアメリカ=象徴天皇制――」『Prime43』2020年3月31日)。

これは、天皇という存在が、現人神という側面をほぼ完璧に喪失したことも意味する。たしかに、天皇が日本国の象徴である根拠は、究極的には神話に求めるしかないわけだが、日本国憲法では、国民の総意によると規定された。戦後は、「開かれた皇室」がスローガンとして掲げられたが、それには国民の支持が不可欠であり、その条件は平成の時代に十分に満たされるようになった。

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天皇の宗教界への影響がなくなった

開かれた皇室における天皇は、現人神としての天皇とは大きく異なる。現人神であることが特に強調されたのは、日中戦争がはじまってから文部省が刊行した『國體の本義』を通してだが、天皇を中心とした政治体制である国体が不敬罪や治安維持法によって守られることで犯し難い神聖性を保持した。そのことが宗教界全体に影響した。昭和天皇にはまだその名残があったが、平成以降になると、そうした面は一掃される。

高度経済成長時代に大きく発展した新宗教においては、天皇という存在はことさら意識されず、信仰対象となる神仏と天皇との関係についても特に言及されることはなくなっていた。創価学会の戸田城聖が説いた国立戒壇は、国柱会の田中智學が説いたもので、智學は天皇の発する勅宣を前提とし、帝国議会の議決を経て建立されるとした。それに対して、創価学会の国立戒壇は、国会の議決によるものとされ、そこに天皇は介在しなかった。そもそも戦後の社会では、天皇の直接の命令である勅宣自体が存在しなかった。

戦前の皇国史観に立ってはいない顕正会

創価学会が国立戒壇建立の計画を捨てたことを批判し続けてきたのが冨士大石寺顕正会である。顕正会は、東京妙信講という日蓮正宗の法華講からはじまるが、創価学会だけではなく、日蓮正宗とも対立するようになり、1974年に日蓮正宗から講中解散処分を受け、日蓮正宗顕正会として独立し、96年にはそれを冨士大石寺顕正会に改めている。

顕正会の国立戒壇では、天皇をはじめとする皇族が入会することが前提になっており、皇室、もしくは政府の宣命で着工されることになっている。これは智學が主張した国立戒壇のあり方に近い。ただ、天皇が国主であることは認めているものの、戦前の皇国史観に立っているわけではない。顕正会は、国立戒壇の建立を目的に掲げていても、実際に政治の世界に進出しているわけではなく、会員が選挙に出ることもない。その点で、政権を奪取しようとしているわけではなく、天皇、ないしは天皇制をどうするかというプランも持ってはいない。