コロナ以降、日本の「空気」はますます面倒くさいものに
それにしても、ここ数年のコロナ騒動は、日本社会の「空気」に関する議論をますますややこしいものにしてくれた。とくにマスク着用については理不尽なことばかりで、「空気」にまつわる悪い側面が集約されたような、実に醜悪な「コロナしぐさ」となった。
先ほど述べた「職場のランチ」においても、コロナ騒動以降は「その場で一番エラい人がマスクを外さない限り、下っ端は外せない」という「空気」が広まった。サラリーマンだろうと、肉体労働者風の人々だろうと、上司や最年長とおぼしき人物がマスクを外さなければ、自分もマスクを外さない。ところが、その上役的な人物がマスクを外した途端、全員がいっせいにマスクを外す。そして、上役が食べ終わって再びマスクを着けると、他の面々も慌ててマスクを着ける──そんな光景が、昼食時の飲食店でよく見られた。
私が、この「空気」の珍妙さ、問題の根深さを痛感したのは、3~4人組の学生の食事風景を見たときだ。上役的な人物が存在しないグループでは「誰が最初にマスクを外していいのか」がわからない。つまり「空気」が読みづらいのだ。そこで、まずはお冷やを飲むとき、「まだマスクを完全に外してはいませんよ」とばかりに、政府分科会の尾身茂会長が推奨したスタイル──マスクの片側の紐を耳にかける「尾身食い(飲み)」、もしくは「あごマスク」で対応する。その後、最初に食事が到着した人が「お先!」とマスクを外し、食べ始めたところでようやく全員が外しだすのである。この流れに、何の合理性があるのか。
合理性がないといえば、「店に入るとき」「注文したものが来るまで」「便所へ行くとき」「会計・退店をするとき」にはマスクを着けなければならない、という「空気」も謎である。そこまで飛沫を気にするのであれば、もっとも飛沫が飛ぶであろう「飲食時」こそマスク着用を徹底するべきである。けれど、それでは飲食ができないから、客はせめて「尾身食い」を励行し、店側は守らない客を即座に追い出さなければならない。「そんなの、現実的ではない」「暴論だ」という向きもあるだろう。それは百も承知だ。マスクに関する「空気」は、どう考えても合理的ではない。だから、非現実的な話にしかならないのである。
もはや「空気」の読み合いでしかないマスク着用
これが、コロナ以降の「空気」がもたらした、すさまじき行動規範の実態だ。飛行機やスーパーでは「他のお客様の安心のため、鼻まで覆うマスクの着用をお願いします」といったアナウンスが頻繁に発せられる。もはや感染対策が趣旨ではない。「『マスクをしない人』に過剰反応し、むやみに怖がる人々が醸し出す空気」に忖度しているだけである。
現在、「従業員がコロナに感染したので10日間施設を封鎖し、防護服を着た人間が全館をくまなく消毒する」なんて大袈裟な対応はなくなった。「未知の殺人ウイルス」に恐れおののいていた、あの頃とは違うのだ。時間の経過とともにコロナウイルスにまつわる知見が蓄えられ、人々の恐怖感は確実に和らいでいる。未知だった頃の「空気」は薄れてきたのだ。
しかし、なぜかマスク着用については、その効果にどんなに疑問符が付こうと、なかなか「空気」が変わらない。「マスクを着けることくらい、大した負担ではないだろう」「一度決めたことなのだから、ひとまずはつべこべ言わずに守れ」「バングラデシュの調査とスーパーコンピュータ『富岳』のシミュレーションでは、マスクの効果が認められた」といった意見が大勢を占める。そんな、マスク率90%超(体感値)の社会が放つ「空気」。施設や企業は、それに忖度しているだけなのだ。
加えて「他の施設のマスク着用ルール」と歩調を合わせるよう、各施設・企業が「空気」を読み合ってしまっているのも煩わしい。他より先んじて「われわれはマスクを強要しません」などと打ち出してしまえば、「感染対策がなっていない店」と世間の厳しい目にさらされる。その「空気」感がわかっているから、誰もやめられないという逆チキンレースになっているのである。