「空気」は物事の優先順位を崩壊させる

公共交通機関も「空気」を読む場所の典型である。電車には「降りる人が先、乗車するのはその後」という乗降マナーが存在するが、これには合理性がある。しかし「車内で泣く赤ん坊は迷惑だから、舌打ちOK。親は席から離れて、スミのほうであやすべき。あるいは次の駅で降りろ」「電話で喋っている外国人はニラんでいい」「寝たフリをすれば高齢者や障害者に席を譲らなくて済む」「マスクを着けていない不心得者を撮影し、SNSで公開してもいい」といった「空気」はいかがなものか。

コロナ初期の頃、珍現象が発生した。7人がけの席の場合、4人が1席ずつ空けて座る「空気」が醸成されたのだ。また、座っている人間と吊革で立っている人間同士が向かい合うとコロナに感染する、という「空気」も生まれた。それにより何が起きたかといえば、ドア付近の混雑である。まったく本末転倒だが、これが2020年春の風景だった。しかし、緊急事態宣言が終了するとなし崩し的にこの「空気」は収まり、7席すべてが埋まるようになった。とはいえ、マスクを着用しない者が椅子に座ると露骨に不快感を示す「空気」は続いたし、マスクをしていない人間が車内に入ってきたら隣の車両に移る者もいた。

車内のソーシャルディスタンス
写真=iStock.com/Fiers
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有効性を無視して、なんとなくの「空気」だけで規範を作り、それが無意味であることがわかった後も思考停止で守り続ける。まったくワケがわからない。そんなことより、いまだに駆逐されない電車内の痴漢の問題を何とかしろよ、と思う。コロナ騒動に踊らされた日本人は、物事の優先順位が完全にぶっ壊れてしまったのだろうか。

自粛警察、不謹慎厨が「空気」の理不尽さを強化

コロナ騒動では「自粛警察」が大量に誕生したが、その元祖は2011年の東日本大震災である。

このときは多数の死者が出たほか、寒いなかで避難所生活を強いられる人々も多かった。そこで「被災者の苦しみと比べたら、私の人生なんて平穏なもの」「自分は恵まれている」「何かできることをしなければ」といった気運が高まり、「セルフ自粛」(変な言葉だが)をする人が増えた。また、福島第一・第二原発が稼働停止したため、電力のひっ迫も懸念され、節電ムードも広まった。首都圏からネオンの明かりが消え、施設内照明や街灯も大幅に減灯となり、街全体が暗闇に包まれた。

そうした風潮のなかで出現したのが、「自粛警察」「不謹慎厨(何かにつけて『不謹慎です!』と難癖をつけてくる人々)」である。東日本大震災の発生からしばらくは、SNSに豪華な料理の写真や笑顔の写真を公開するだけで、非難の対象になった。コロナ騒動でも同様の「空気」が生じ、「亡くなった人や症状に苦しんでいる人がいるというのに、楽しそうに過ごしている写真を公開するなんて常識を疑う!」「皆が我慢しているところ、会食したり、旅行に出かけたりするなんてけしからん!」などと自粛警察、不謹慎厨は騒ぎ立てた。

写真を公開した人からすれば「暗いムードを少しでも吹き飛ばして、明るい気持ちになれたら」「1日でも早く日常を取り戻したい。経済を回したい」といった思いがあったのだろう。でも、自粛警察や不謹慎厨は「正義はわれらにあり!」とでも言わんばかりに糾弾した。私のまわりでも、一緒に小旅行に出かけたり、会食をしたりした人(とりわけ、それなりの立場にある人、知名度のある人)から、「悪いんだけど、今日の写真、SNSにアップしないでおいてくれるかな」とお願いされるケースがいくつかあった。自粛警察に見つかったら、何を言われるかわかったものではないからだ。