母の死や名前すら認知できない父

父は母の死を認知していないようだった。

弔問客が来れば、「いらっしゃいませ」などと丁寧に対応する。その人が泣くと、もらい泣きして「俺も悔しいよ」と泣き崩れる。しかし帰った後に、母の遺影を見て「これは誰だ?」と私に訊く。位牌に記された命日(12月8日)を指差して、「太平洋戦争が始まった日だな」と言ったりするのである。

「お母さんは死んだんだよ」

私が説明すると、父は「そうだ」とうなずいた。しかしよくよく聞いてみると父にとっての「お母さん」とは父の母のことだった。父の母のことは「アキちゃん」と呼んでいたので、「アキちゃんじゃなくて、お母さん」と訂正したのだが、母であるアキちゃんではないお母さん、というのは矛盾を孕んでいるようで、父は目を丸くした。

「キヨ子さんが亡くなったんだよ」

母のことを名前で言い換えると、父は「キヨ子さん?」と首を傾げた。名前を忘れてしまったのかと何やら切なくなったのだが、父は毎日、昼間は母を迎えに近所のスーパーに出かけ、夜になると母の分の布団を敷いている。名前を忘れても母の存在は体で認知しているようなのである。おそらく私が言う「キヨ子さん」という言葉に違和感を覚えているのだろう。私が母のことを名前で呼ぶのはヘンだし、父に対してこれまで言ったことがないわけで、父からすれば初めて聞かされる名前なのかもしれない。

「正常な認知」とは何か

そこで母のことを「お父さんの奥さん」と言い換えてみたのだが、すぐさま「お父さん?」と訊き返された。「そう、お父さんの」とうなずくと「俺のお父さんは昌之助っていって……」と昔話を始めようとしたので、「いや、お父さんのお父さんじゃなくて、お父さんのさ」と否定すると、丸くなった目が縮瞳を起こした。

確かに「お父さんのお父さんではないお父さん」という言い方は続き柄と呼び名が併存しており、誰のことだかわからず、まるで実在のお父さんとは別のイデアとしての「お父さん」に言及しているかのようである。

考えてみれば私も「お母さんは死んだんだよ」とは言ったものの、母の死をまだ実感できていなかった。今も2階で寝ているような感じがするし、トイレからひょっこり出てきても、驚かずに「どこ行っていたの?」と訊くような気がする。母は死んだというより存在が拡散し、その所在を特定できない状態のようで、どうやら私自身も母の死を認知できていない。そもそも、どう認知することを「正常な認知」というのだろうか。