「かわいそうランキング」が暴いてしまった不都合な真実

「かわいそうランキング」というワードそれ自体は、2018年に出した拙著『矛盾社会序説』(イースト・プレス)のなかに収められた一篇に登場しただけで、その後の私の著書や雑誌寄稿やメディアには登場していない。出演するラジオでもこのワードを使ったことはおそらく一度もない。にもかかわらず、このワードは「ネットミーム」として今日まで使われ続け、大きなセンセーションを呼んでいる。

御田寺圭『矛盾社会序説』(イースト・プレス)

「かわいそうランキング」がそれほど大きなインパクトを与えた理由は、この社会に蔓延する差別や不平等が、必ずしも「悪意」によって生み出されているわけではないことを示したからだ。

この社会にいまだ根深く存在する差別や迫害や不平等や疎外は、悪辣あくらつな差別主義者や排外主義者の憎悪や暴力によってそのすべてがもたらされているわけではなく、日々を懸命に生きる人びとの素朴な「善意(の偏在)」によって生み出されている側面も、前者と同じかそれ以上に大きい。

「この社会のどこかにいるラスボスを倒せば世界からきれいに差別や不平等がなくなるのだ」という、わかりやすい勧善懲悪の物語を否定してしまったのも「かわいそうランキング」だった。

自分の心のなかにある正義感や素朴な良心に従って他者を助け、それが差別や不平等や憎悪や分断のない社会を実現すると信じていた人にとって「あなたのそうした善意がむしろ差別や不平等の温床となっている」と指摘するこの問題提起はあまりにも認知的不協和が著しく、私が言論界において「なぜ言論の機会を与えているのか」「こんな奴の言論を支持するべきではない」などと謗られる最大の原因となっている。

いずれにしても、人情や共感や慈悲といった人間の個人的な「良心」では、どうしても弱者救済の対象選定やリソース配分が偏ってしまうからこそ、人間の良心の働かない非人間的な「公」のセクションにその役割を付託することによって、「弱者救済の公平化」を図るべきだろう――という解決策の提示までが、2010年代における「かわいそうランキング」をめぐる議論だった。