「一代限り」の商売が放つ理屈抜きの面白さ

競争構造は変わった。ラ・モールの成功をみて、地方から企業資本の店が続々と銀座に乗り込んでくるようになった。ちょうどその頃、さらにおそめを追い詰めるような事件が起きる。店で混ぜ物をした安酒を高給酒として出していた疑いで、おそめのバーテンダーが逮捕されたのだ。この偽造洋酒事件で、銀座の信用を失墜させたとおそめは大バッシングを受けた。当時はどの店でも洋酒を闇ルートで仕入れていたので、偽造酒をつかまされたのがおそめだけだったというのはいかにも不自然な話であり、ライバルのラ・モールが仕組んだのではないかという噂までながれた。結局真相は明らかになっていないが、おそめのイメージダウンは避けられず、客の多くがラ・モールに流れた。

この事件を境に、おそめの商売は銀座でも徐々に先細りになっていく。それでも秀は天然の自然体のまま、ノーガード戦法を変えなかった。銀座の競争構造の変化や新しい戦略で参入してくる競争相手に対して、何ら有効な策を打ち出せなかった。当初の戦略ストーリーの一貫性がすっかり崩れてしまった京都のおそめ会館はもちろん、銀座の店も徐々に客足が途絶えて、何度も閉店説がささやかれた。赤字を出しながらも秀は意地で店を続けたが、やがて限界を迎え、昭和53年でおそめの灯は消えた。

おそめ凋落の原因としては、秀の暴走による自滅と競争相手の戦略イノベーションのふたつの側面があるのだが、どちらかといえば、自滅の要素のほうがが大きかったと思う。オーナーマダムの秀が、自分のような人材を見つけてきて育て、一貫性を維持しながら拡張していったら、あれほど流行った店がこんなに早く立ち行かなくなることもなかっただろう。また、経営も夫の俊藤に好きにさせるのではなく、プロの経営者に戦略ストーリーをつくらせ、自分はプレーヤーに徹していたら、ラ・モールのような強力な新戦略をひっさげた店が現れても、あれほどのブランド力を持っていたおそめである。対抗することができたかもしれない。

ただし、である。秀が戦略の一貫性や競争構造が変化する中での競合との差別化などといったことを客観的に考えられる人だったら、そもそも秀は秀その人ではありえない。おそめのような店ははじめからできていなかっただろう。秀は、店が落ちぶれても、相変わらず新幹線の車掌にチップとして1万円を握らせるような滅茶苦茶な金銭感覚は変わらなかった。さすがに夫が怒ると「物もお金も残す気持ちなんかありまへん、うちが残したいのは名前だけです」と啖呵を切る。そこには計算はなく、徹頭徹尾自然体の天才だった。そして、事実として秀は物もお金も残さなかったが、一代限りの伝説を残したのである。

おそめが閉店してほどなくして、熾烈な競争を繰り広げたかつてのライバル、エスポワールの川辺るみ子も一線から姿を消した。おそめは閉店する前に、川辺にだけはそのことを打ち明けていた。夫である俊藤浩滋が映画業界で大成功し、自分もやっと面倒をみてもらえるようになったと告げる秀を、川辺は「よかったわね。おそめちゃん、本当に……」と絶句して、強く抱きしめ泣いたという。川辺自身は若い自分に離婚し、息子が一人いたものの縁は薄く、寂しい晩年だった。アル中だ、ノイローゼだ、という噂も流れた。十年も長患いしたのちにひっそりと亡くなった。

秀やるみ子が時代の変化に適応して、最後までそこそこ商売として成功していたら幸せだったのかというと、そうとも言えない気がする。秀にしてもるみ子にしても、傍から見れば晩年は決して幸せとはいえなかった。しかし、自分のスタイル、自分だけの強烈なスタイルで時代を駆け抜けた達成感みたいなものがあったのではないかと思うのである。

おそめの爆発的な繁栄と、意外に早かった凋落が教えてくれるのは、商売の理屈で割り切れない部分の重みである。本書『おそめ』には、理屈抜きの商売の面白さ、楽しさ、美しさ、難しさ、怖さ、深さ、哀しさがすべて詰まっている。筆運びや構成も秀逸で申し分ない。秀の人生を象徴的に描くエンディングも素晴らしい。その哀しくも美しい姿にため息が出る。

商売と競争のすべてがここにある。一読して唸る傑作である。

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