教員が「プライベートで休みます」は許されるのか
では、教員が「来週、大好きなアイドルグループのコンサートに行くので、休みます」といったケースはどうだろうか。
同僚の教員目線でいえば、恐らく「許せない」あるいは「その理由ではとてもではないが休めない」という人もいるのではないだろうか。一般の人々も、同じように感じるかもしれない。なぜ許せない、あるいはその理由では休めないという心理になるのか。単純に「ずるい」あるいは「周りに迷惑をかけるのは申し訳ない」と感じるからである。自分は学校に出てがんばっているのに、と。周りもきっとそう思うだろう、と。また、保護者目線でいえば、子供をほったらかしにして授業はどうするんだ、と身勝手さに憤慨することもあるに違いない。
だが、ここに大きな誤り、落とし穴がある。
要は「自分もがんばっているから、あなたもがんばるべきだ」という、自己中心的な、道連れ的な発想である。これを、逆にして「自分も楽しむからあなたにも楽しんでほしい」とすれば全ての人にとっての幸せベースの発想になるのではないか。
この発想で、子供が休むのを「楽しんできてね!」と受け止める。あるいは、同僚がその理由で休むのを気持ちよく見送る。教員に限らず働く大人は、これからは互いにそうしたスタンスが必要だ。
実際、私の尊敬する同学年の先輩教員が、これを理由に年休を取ったことがある。ちなみにこの教員は、担任であり学年主任である。当時の同学年のメンバーはみんな笑顔で「いいなぁ!」「すてき!」「楽しんできてくださいね!」と送り出した。
しかし、どの学校・組織でもこのようにはいかないかもしれない。「残された子供たちはどうなるんだ」「担任なのに無責任だ」という批判が予想されるからだ。
逆なのである。年休を取って自学級を自習にするぐらい、当たり前のことになるべきなのである。もちろん、あまり頻繁にそうしたことがあると問題だろうが、たまに、「今日は自習デー」を実行できる学級に育てることが、教員としての理想的な仕事の在り方と言える。
近年、精神疾患で病休する教員が増えているが、以上のような意識変革が、教師の、そして社会全体の本質的な働き方改革にもなると筆者は信じている。
「私の学級は私が全て面倒を見なければ」という強すぎる責任感が、病休者を生み続ける。子供は本来学校全体で預かっているのであり、担任の所有物ではない。そしてその偏狭な考えはそのまま、同僚や担任する子供たちなど、周囲の人々にも適用される。
「銀座まるかん」創業者の斎藤一人さんの言葉に「自分に厳しい人は、他人には倍厳しい」がある。そして、お互いに休みがとれず、首を絞め合い続ける結果になる。当然、子供の「家庭の都合による欠席」に対しても、不寛容になる。