不満は自分自身への「問い」である

デーヴァダッタは頭の良い人物だったと思います。しかし、プライドが高く謙虚さに欠け、その力を謀略を張り巡らすことに使用し、正しい方向に発揮することができませんでした。

ブッダに叱責されたとき、素直に「なぜ、私がダメなのかわかりません」と問うことができていれば、変わっていたでしょう。実はあの場面はデーヴァダッタ自身が良い方向に歩み出す好機でもあったのです。仏教が腹に落ちる瞬間というのは、意外と自分の心が乱れ、「問い」を持ったまさにそのときなのです。

光澤裕顕『仕事がつらいときに読む仏教の言葉』(星海社新書)

私が、まだ仏教を学び始めて間もなかったころ、「仏教」というものがわかりませんでした。そんなとき、私の先生が言ったことばです。

「仏教には《答え》がある。にもかかわらず、私たちがその答えを導くことができないのは、問い方を間違えているからだ。正しい問いを立てられれば自然と答えはついてくる。だから、答えでなく問いを考えるのだ」

この先生は、高名な学者というわけではありません。平生は地方の住職をされている方です。この言葉も、おそらく先生自身が僧侶として生きる日々の中で感じたことでしょう。

ですから、仏教というより「先生の言葉」なのですが、今も私の中で残り続ける大切な問いです。

「不満」というのは、他者を通して私たちに投げかけられる、自分自身への「問い」の形です。

ここまでさんざんデーヴァダッタを「悪役」として語ってきましたが、彼は「悪役」であって「悪」ではありません。自身の行動をもって、私たちに驕ること、感情的に振る舞うことの愚かさを教えてくれる「先生」なのです。それはあなたの上司も同じかもしれません。

なかなかすぐに「問い(不満)」が晴れることはないかと思いますが、どのような「問い」が自分に投げかけられているのか考えること、それが不満を「学び」とする機会なのです。

そして、「問い」の幅が広がれば、今まで気がつかなかった心のSOSを整理し「不満」とは別の形で表現することができるようになるでしょう。

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