義経が鎌倉に対し挙兵した本当の理由

兄弟が会ったにしろ、会わなかったにしろ、義経は無事に京都に帰還していることから、頼朝と義経はこの時点では完全破局には至っていなかったことが分かります。完全破局していたならば、この時点で、頼朝は義経を捕縛または殺害したでしょう。

『吾妻鏡』には、鎌倉に入れてもらえず、京都に帰ろうとした義経(6月9日に東国をたつ)が「関東(頼朝)に恨みがある者は付いて参れ」と放言したと書いてあり、そのことが要因で、頼朝は義経に与えていた所領24カ所を没収したとされます(6月13日)。

しかし、義経が兄・頼朝に挙兵するのは、その年(1185年)の10月です。義経も6月の段階では、頼朝に対し、挙兵するほどの怒りは抱いていないのです。

義経が挙兵を決意した理由は『玉葉』(当時の貴族、九条兼実の日記)の10月17日の項目に書いてありますが、1つは前述の所領没収。2つ目は、10月に行われた刺客の派遣。3つ目は、伊予国に地頭が置かれて、国務を妨害されたことが挙げられています。

同年8月、義経は朝廷から伊予守(伊予国=現在の愛媛県の国守)に任命されていました(伊予守任命についても、4月に頼朝から申し入れがあったといわれます。頼朝は6月の時点では義経の伊予守任官を苦々しく感じていたでしょうが、朝廷との関係を重視する頼朝としては今更、任官をご破算にというわけにはいかなかったでしょう)。

刺客の問題は両者決裂後のことであるので、義経からすると、地頭を置かれて国務を妨害されたことが挙兵の大きな理由だったと思われます。

ルールを守らないことへの怒り

では、なぜこんな嫌がらせを頼朝は行ったのか。

本来、伊予守に任命されたら離任すべき検非違使けびいしに義経は留任していたのです(義経は1184年8月、検非違使に任官。木曽義仲や平家討伐の恩賞でした)。こうした人事は異例で、その背後には後白河法皇がいたとされます。

検非違使は、京都の治安維持などを担う役割があります。留任となると、当然、京都にとどまることになります。ですが、源氏一門は、源範頼のように鎌倉に住むのが原則でした。頼朝も、検非違使を外れた義経は鎌倉に召喚すべきと考えていたはずです。

この人事は、義経が法皇と結んで鎌倉に帰ることを拒否したと言えます。よって、頼朝は伊予に地頭を置き、国務を妨害したのです。

頼朝が義経の鎌倉召還を望んでいたと書くと「頼朝は義経を本当は好ましく思っていたからではないか」と思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。好き嫌いの問題ではなく、頼朝からしたら、原則は守れよということです。頼朝の意向を無視したから、義経は切られたのです。