我が友は「日本を立て直す」と宣言した

1976年のメモリアル・デイだったと思いますが、ボストンのラジオ放送を聴いていたら、広島・長崎への原爆投下は正しかったかという問い掛けに、私が聴いていた限りでは10人中、8、9人のリスナーが「正しかった」と答えていました。世界中から若い学生が集まるボストンはリベラルな街だという印象を持っていたので、ショックを受けた記憶があります。

アメリカで同性同士の婚姻が最初に合法化されたのはマサチューセッツ州です。そういうリベラルな一面を持ちながら、メイフラワー号に乗って大西洋を渡ってきた清教徒たちの子孫によって築かれ、やがて独立戦争の舞台にもなったのが古都ボストンですから、やはり保守的なところは根強く残っている。

J・F・ケネディだって新参者として散々差別されました。私自身、高校の留学時代からレイシズムを感じてきましたし、それは今でも残っていると思います。

そういう環境に身を置いていれば、日本人としてのアイデンティティのようなものは嫌でも意識せざるを得なくなります。

大前氏や私がMITで学んでいた同時期、日本人2人目のフィールズ賞(4年ごとに開催される国際数学者会議で発表される数学版ノーベル賞)受賞者である広中平祐先生が、コロンビア大学からハーバード大学の教授に招聘されました。日本人はまだ少なかったし、日本食レストランも一軒あるかないかの時代ですから、広中先生はボストン界隈の日本人学生をよく自宅に招いてご馳走してくれました。

毎回、20~30人集まって、和歌子夫人(のちに参議院議員)に手料理を振舞っていただいた。どれもこれも美味しくて、滅多に口にできない天麩羅などは最高のご馳走でした。

そのとき、広中先生はこうおっしゃっていました。

「我々みたいに外国で一時期生活した人間というのは皆、愛国者になる。愛国心というものを一番わかっている」

私も賛成でした。外国で生活していたら、日本のいいところ、悪いところが全部見えてきます。

その頃、大前氏と将来のことについて語り合ったことがあります。大前氏の関心が向いていたのは、祖国日本でした。「とりあえず本を3、4冊書く」と彼は言っていました。1冊、2冊では社会的な影響はないからです。日本を立て直すための処方箋をしっかりと世に示し、「最終的には自分が総理大臣をやってもいい」と。

どれくらい本気だったかわかりませんが、日本を心配する気持ちは当時からとても強かった。世界に冠たるMITで自らの研究を貫き、外国人の学友や先生方に伍して渡り合っていた彼の立場からすれば、日本の有様が歯がゆく見えて仕方がなかったのだと思います。

次回は「友が語る『青春の大前研一』(後篇)」、5月7日更新予定。 

(秋葉忠利=談 小川 剛=インタビュー・構成)