父曰く「社会に出たら伶子の勝ち」
研一のオーケストラをカーネギーホールに見に行ったこともありました。まだ2歳か3歳の娘を「絶対にしゃべらない」というから連れて行くと、白い目で見られました。でも娘は一言もしゃべらないでじっと聞き入っていた。するとコンサート終了後、周囲の人たちは彼女に対して拍手をしてくれました。聞けば、タクトを振っている指揮者が「けんちゃん」だと思って見つめていたそうです。
娘は研一が大好きで、来るたびに「けんちゃん」「けんちゃん」とまとわり付いていました。本が読めなければ遊んでくれると思って、よく研一のメガネを隠す悪戯をしたものです。
MITの卒業式には私も出席しました。本当は日本から両親を呼びたかったようで、連絡を取っていましたが、「せっかく会った孫と別れるのはつらい」という理由で叶わず。
卒業式の前日に研一がわざわざニューヨークに迎えにきてくれて、そこからクルマで卒業式に向かいました。
黒いローブを身に纏い、四角い帽子を被った弟を遠目に眺めていたら、ポロポロと涙がこぼれてきました。
式典の厳粛な雰囲気に飲まれたこともありますが、卒業するために研一がどれだけ大変な勉強をしてきたかを知っているだけに、余計にぐっときました。
小さい頃から頭の出来が良くて、小学校は総代、中学も高校も通知表はオール5。私の通知表は2と3しかない。でも遅刻、早退、欠席ゼロ。研一は遅刻25回とか、欠席15日とかで、いつも進級ぎりぎりの数字でした。
父親は私と研一の通知表を見比べて、「社会に出たら伶子の勝ちだな」
いくら勉強ができても、生活の基本ができていなければダメだというのが父親の教え。おかげで私は勉強ができなくても余計なコンプレックスを持たずに済みました。
でも出来過ぎる弟を持つと嫌でも思い知らされます。研一は一学年下なので、私が使った教科書をそのまま使っていたのですが、私がアンダーラインを引いた箇所を見て、「あそこに赤線引くようじゃ、やっぱり3だよ」
子憎たらしい弟でした。そんな研一がアメリカでは必死に勉強していた。ニューヨークに来るたびに、電話帳ぐらいの分厚い本を持ってきて「今日中にこれを読んでレポートを書かなきゃ」と言っていました。
いろいろな思い出が脳裏を駆け巡って、卒業式では涙が溢れてきました。母親にも見せてあげたいと思いました。
隣の席のアメリカ人から「あなた、こんなハッピーな日になぜ泣くの?」と言われて、ようやく我に返ったのです。ここは弟の旅立ちを笑顔で祝う場なのだ、と。
次回はMIT時代のルームメイト、秋葉忠利さん(前広島市長)へのインタビューです。4月23日更新予定。