この例にあるように、スキルの種類は多岐にわたるが、それぞれのスキルについてその内容の定義が社会的に定着している。これもまたスキルの特徴である。「わたしは○○のスキルがありますよ」といえば、「ああ、この人はそういうことができるんだな」と理解できる。「はい、このようにきちんと英語が喋れますよ」というようにデモンストレーションも容易である。
しかも、スキルのよいところは、それを身につける道筋もある程度出来上がっているということだ。定評のある教科書がある。習得の方法論が大体の場合確立されている。そのとおりやれば、少なくとも以前よりはできるようになる。内容がはっきりしている。人に示せる。努力すれば改善できる。だから、やる気が出る。
一方のセンスはというと、スキルとはまるで異なる。スキルと違って、ある人にはあるのだが、ない人にはまるでない。センスを身につけるための定型的な方法もない。だから「それはセンスの問題だ」と言いきってしまうと、「それを言っちゃあおしまいよ!」という話になる。はじめに紹介したような苦情が殺到する。
しかも、センスは千差万別であり、社会的に共有された定義もない。試験の成績や資格の取得で人に見せることもできない。「わたしはセンスのある人間でしてね…」などと言おうものなら、かえって怪しまれるのが関の山である。
だから今の時代、多くの人がスキルに傾く。センスがないがしろにされる。会社の中でもスキルばかりが幅をきかせるようになる。気がつくと会社全体が「担当者」だらけになる。挙句の果てに、「代表取締役担当者」とでもいうべき社長が出てくる。何をやっているのかというと、代表取締役の担当業務を粛々とこなしているだけ。まるで戦略が出てこない。こうなるともはや笑えない状況だ。誰も本来の意味での経営をしていないということになる。