人を殺せるものなのか、わからなかった
私にアプローチをしてくれた人がいました……花束を持って……。その人が花束をくれようとしたとき、私は「近寄らないでください、私は人殺しの母親なんです!」と怒鳴っていました。
はじめのうちは知り合いに会うのも怖くて、お風呂場に閉じこもっては、このまま壁が崩れて生き埋めになってしまえばいいのにと考えていました。
外に出れば誰もが私を知っていて、みんながこっちを指差しては、「ほら、例のひどい事件の……あの人の息子がやったんでしょう。バラバラにしたらしいですよ。アフガンの手口で……」と噂しているんじゃないかという気がして。
だから外へ出るのは夜中だけにしたんです。夜行性の鳥にすっかり詳しくなって、鳴き声でわかるようになりました。
取り調べがあって……数カ月続きましたが……あの子は黙っていました。私はモスクワのブルデンコ軍病院を訪ねました。そこで、あの子と同じく特殊部隊(スペツナズ)にいた子たちを探し出して、事情を説明しました……。
「どうしてうちの子が殺人を犯すことができたんでしょう」
「つまり、それだけのことがあったんでしょうね」
なかなか腑に落ちなかったんです、息子がそんな……人を殺せるものだろうかって……。
殺すことを何とも思っていない少年たち
ひたすら訊いて回って、ようやくわかりました。殺せたんだ、って。死ぬことについても訊いてみました……いえ、死ぬことというより、殺すことについて。でも殺人の話をしてもまったく抵抗感がないんです、血を見たことのない正常な人間なら殺人と聞いて必ず感じるはずのあの感覚を失くしてしまってる。
あの人たちは戦争を、人を殺す仕事と捉えていました。それから、やはりアフガニスタンを経験し、アルメニア地震のとき〔一九八八年十二月〕には救助隊とともに現地に行ったという若者たちにも会いました。アルメニアで恐怖を感じたかどうか、それが気になったんです。
私はそこにこだわるようになっていました。彼らは死を目の当たりにしてなにを感じるのか。でもやっぱりなにも恐れないし、かわいそうだとも感じにくくなっているようでした。
手足のない人……潰された人……頭、骨……。まるごと地中に埋まってしまった小学校……教室……。授業中、席に着いたまま土の下に消えていった子供たち……。
それなのに彼らが思い出すのは、まったく別のことばかり。上等な酒の貯蔵庫を掘り起こしたとか、どんなコニャックやワインを飲んだとか。「またどこかで地震でも起きないかな、起きるなら暖かい土地で、ブドウの木が育つ、いいワインがとれるところがいい」なんていう冗談さえ飛ばして……。
あの子たちはまともなんでしょうか、精神に異常はないんでしょうか。