初仕事は「不良店長をやめさせること」

1989年、韓俊は中央大学を出て2年半、在日韓国人が経営する信用組合、大阪興銀で働いた。その後、マルハンに入社する。当時の店舗数は35。まだ都内に店はなく、兵庫県と静岡県だけに立地するローカルパチンコチェーンだった。

俊が大阪興銀をやめて、マルハンに入ったのは危機感からだった。

「マルハンが心配でした。マルハンはバブルの時に勢いに乗って数多くの店をオープンさせたのです。だが、バブルが崩壊してから、業績に陰りが出てきて、苦しくなっていきました。それぞれの店が店長の思うままに勝手に営業していて、バラバラの組織だった。兄(韓裕)と僕がやったのは会社をきちんと組織化して、社員教育もやって、会社をまとめ上げることでした。そうしないと、赤字になり、果てはつぶれてしまうと思ったのです」

俊が最初に所属した部署は名称こそ経営企画だったが、やらなくてはならなかったことは不正をした店長をクビにすることだった。

会社から命令を出せば店長をやめさせられると思うが、当時はまったく通用しなかった。

「退職してくれ」と通達しても、その紙を破いて、「会社がなんだ。この店は俺がやってるんだ」と平然と無視する店長がいたのである。

韓俊はひとりで不正があった店舗へ行き、証拠を見つけて、店長を解任するという仕事をやった。20代の若者にとっては大きな負荷のかかる仕事だったと言える。

彼は「思い出したくないけれど」と言いながら、事情を話してくれた。

提供=太平洋クラブ
現在のマルハンの店舗

やめたうちのひとりが夜中にやってきて…

「ひとりで静岡県へ行きました。当時、1店だけではなく、金にまつわる不正、部下に対するパワハラなど、いくつかの店で問題が顕在化していたのです。実は入社前からすでにそういった問題が現場で起こっていたことは兄と私はすでに把握していました。

そういう人間たちをやめさせるのは人が嫌がる仕事です。ですから、社長の息子だった私がやらなくてはならなかった。あの時代、人生で一番、気合を入れて会社に行っていました。

静岡と神戸にあった店舗の何人かを説得してやめさせたのですが、そのうちのひとりは夜中に酔っ払って、僕の住まいにやってきて、『出てこい』と大声で怒鳴ったり、その辺のものを蹴飛ばしたりするわけです。まあ、襲撃されるところまではいかなかったけれど、睡眠不足の日々でした」