「頑張ればきっと報われる」という物語を若者は信じられない

「ちゃんと生きて、ちゃんと働いていれば、いつかは報われる」――と、大人たちが示す物語を、いまの若い人はあまり信じられなくなっている。

私の周囲でも同じような状況になっている。ろくに仕事をせず燻ぶっている若者が幾人かいて、かれらは往々にして「どうにかして楽に大金が手に入る方法がないか」と“人生一発逆転”的な夢想にふけっている。そんなかれらに対して「ありえそうもない夢を見てないで真面目に汗して働け」と助言したときに「コツコツ働いたところで、なんだというのだ」と言い返される機会が、以前より増えている。

その返答に対して、私は少々言葉に詰まる。

というのも、この国の賃金がバブル崩壊以降ほとんど一貫して低下し続けたことは事実だからだ。1997年から現在に至るまで、時間当たりの賃金の伸び率がマイナスになっているのはOECD加盟国のなかでも日本だけだ。このような状況で「真面目に働いていればいいことがあるよ」と若い世代に伝えても「うそをつくな」と思われても無理はないのかもしれない。実際によくなっていないのだから。

「今日よりも明日がきっとよくなる」という楽観的なナラティブに真実味を持てなくなってしまった社会こそが、「目の前に落ちてきた(違法行為であるため人生を棒に振るリスクが含まれた)一攫千金のチャンス」と「これから40年ぐらい働けば得られるかもしれないそれ以上のお金」を天秤にかけたとき、前者に傾く者を生み出してしまったのかもしれない。

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「よい時代」を経験した世代とは、世の中の見え方が違う

「4630万円事件」の舞台となった町の人びとのインタビューをネットで見た。地方の小さな町であるためか、画面に映るほとんどの人は高齢者だ。「よくもまあそんなことできるねと……」「常識じゃ考えられない!」「理解できないです!」と町民たちは困惑や憤りをあらわにしていた。もっともだ。だが、持ち逃げを決めた彼と、インタビューで彼を非難する町の人びとは、おそらく「世の中に対する基本的な信頼感」が根本から違うのだろう。

かつてこの国にあった「よい時代」を経験し、時代の幸運に便乗して一定の資産やポジションを築き終えている者と、そのような時代がすでに終わった後に生まれ、凋落を続け希望の持てない社会で食いつなぐ者とでは、世の中の「見え方」がまったく違う。

この社会で説かれる「常識」や「モラル」は、後者の人びとにとって「いい時代をたまたま過ごした人たちが、これからも穏やかな余生を過ごせるように協力しろ」と言われているような気分にもなってしまうのだ。「なぜそんなことに、自分がいちいち従わなければならないのか?」――と考える人が現れたとしても不思議ではない。

国際情勢やパンデミックの影響で社会的悪状況が加速していくなかで、こうした人は増えていく。近いうちに、また現れるのではないか。