「母であることの後悔」は認められていない

母であることが、女性にとって意味のある関係性になり得ること、それによって充実感や喜びや愛情、心地よさや誇りや満足感がもたらされることを、私たちはすでに知っている。

しかし同時に、母であることが緊張と葛藤を呼び、寄る辺なさや欲求不満や罪悪感、恥や怒りや敵意や失望を生み出すかもしれないことも、すでに知っている。そして母であることが、女性の活動と自立の程度を減じる可能性があることも。さらには、母が意識的または無意識に危害を加えたり、虐待したり、時には殺すことができる人間であることも、私たちはすでに理解し始めている。

それでも私たちは、「母」の神話的なイメージが損なわれないことを望んでいる──女性が血の通った生身の人間としてさまざまな経験をするにもかかわらず。そのため、私たちが日常的に尽力したり苦しんだり気遣ったりする他の多くの役割と同様に、母であることが後悔の感情を呼び起こすかもしれないと認めることには、いまだに消極的だ。母が困難に直面し、それを認識しようがしまいが、母になるのが不幸なことだと感じたり考えたりすることは、期待も許可もされていないのだ。

声を上げるための言語がないこと、そして母であることが後悔という人生経験から切り離されていることから、母になった後悔については、公開討論においても、母性に関する理論的なフェミニストの著述においても、ほとんど言及されていない。

母についての、または母によって書かれた文章は、乳幼児の母としての感情や経験にしか触れていないものがほとんどだ。つまりそれらは母になりたての頃についての内容であり、年長の子を持つ母の経験についてや、母と子の人生を母の視点で回顧するといった内容のものは比較的少ない。

さらに、母になることについての女性の心情を扱う文章といえば、母になりたがらない女性を扱う内容のものがほとんどだ。つまり、母を生きる女性とは何ら関係のない「その他の女性」の問題だと考えられるのだ。だから、このトピックに関するフェミニストの理論においてさえも、母になることについては、後悔はもちろんのこと、再評価する余地がないように見える。

「後悔する母」は利己的で頭のおかしな女性

近年、母になったことを後悔するというトピックがインターネットで取り上げられたごくわずかな機会においては、そのことが懐疑や怒りと歪曲の対象として迎えられがちであった。つまり存在自体が否定されたり、後悔する母は利己的で頭のおかしな傷ついた女性であり、現代の「泣き言文化」を体現した不道徳な人間という烙印を押されたりするのである。

私はこのテーマについて2015年に記事を出し(学術誌『Signs』に掲載)、その後ドイツのマスコミの取材を受けた。これを受けて設けられた新しいハッシュタグ#regrettingmotherhoodの下で、多くの西側諸国(特にドイツ)で激論が交わされたが、その際にも不信と怒りという2つの反応をはっきりと見ることができた。

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