非難が集まる一方で「救われた」の証言も
オンラインでの議論が広まるにつれて、私の調査に対して次のような個人攻撃のコメントが続くようになった。
激しい議論のなかで、母になった後悔の声を上げる女性たちへの非難が殺到した。しかし一方で、母になったことを後悔し、そんな人間は自分ひとりだと考えていた母たちから、救われたという証言も数多く寄せられた。
他にも、多くの女性や母たちが、母または子どもの主な養育者になる義務感の苦痛を公表することで、後悔という感情が持つ重要性を表明してくれた。育児のブログやSNSにコメントする何百人もの女性は、これをきっかけに、社会からの厳しい決めつけや批判を避けるべく心の奥にしまっていた感情を(再び、またはようやく)声に出すことができた。
母であることについての感情には大きな振れ幅があり、それらを表立って論じることが望まれているのは明らかだ。母であることに関する公の言説には、まだ何か深く欠如しているものがある。何かしら言うべきことが、舌の先に残ったままなのだ──母になったことを後悔することが、根深いタブーである限りは。
「母になるという義務」の再考を
2008年から13年にかけて行った私の調査では、暗黙のタブーであるこのトピックに居場所を作ることを目指し、そのために、母になって後悔しているさまざまな社会集団のさまざまな年齢の女性に話を聞いた。すでに孫を持つ人もいた。『母親になって後悔してる』では、これらの女性が母になるまでにたどった多様な道筋をふり返り、子どもが生まれてからの知的・感情的な世界を分析し、誰の母でもいたくないという願望と、子の母であるという事実との間の苦しい葛藤について探究してゆく。加えて、こういった葛藤について、さまざまな女性がどのように認識し、どう対処しているのかについても調査する。
とはいえ、私の関心は、母になった後悔の存在を認識することだけにあるのではない。それでは、社会を責任から解放することになってしまうからだ。
もしも後悔を、母になることに適応できない女性の失敗だと個人化するなら(それゆえに、そのような女性はもっと努力するべきだというなら)、多くの西洋社会が女性に母になることを熱心に勧めると同時に、その説得に応じた結果としての孤独を受け入れさせようとすることに対して、目をそむけたままになってしまうのだ。
後悔とは、いくつかの公開討論で示唆されたような「特別な出来事」ではない。「変わり者の女」が「感情を吐露する見世物」ではないのだ。
感情を、権力のシステムに対抗する手段だと捉えるなら、後悔は一種の警鐘である。母親がもっと楽に母でいられる必要があると社会に警告を発するだけでなく、生殖をめぐる駆け引きと、母になるという義務そのものを再考するように促しているのである。