「安全を最優先する」は永田町の文学的表現
岸田政権は発足以降一貫して、原発については「安全を最優先する」と強調してきたばかりで、具体的に再稼働に向けた動きを見せなかったどころか、再稼働する/しないの将来的なビジョンすら言明を避けていた。再稼働を見送るのであれば、その分だけ代替案として別のエネルギー供給源を確保しなければならないが、それもしなかった。挙句に出てきたのが「各家庭での節電」だった。
念のため補足しておくと「安全を最優先する」とはつまり、「原発は現時点では安全でないので(一部を除いて)稼働しません」を言い換えた永田町ならではの文学的表現である。なにかにつけて「様子を見ます」一辺倒では心証が悪い。だからこそ、なにかに取り組んでいる感を出しながら現状を維持するワードセンスが試される。「なにもしない」の文学的でポジティブな表現のバリエーションは、実際のところ多ければ多いほどよい。
しかしながら、いくら多くの批判が寄せられても、岸田文雄の考え方が変わることはないだろう。もっとも、それは彼が根っからの事なかれ主義者だからではない。彼をはじめ政府関係者が十分すぎるくらいに「国民の物分かりがよい」ことを知ってしまっているからだ。
国民が努力をするから、政治は無責任でいられる
結局3月の「電力供給の危機的状況」にしても、国民が岸田首相からの「お願い」を聞き入れ、従順に協力したことで需要が供給を上回ることはなく、大規模停電の発生は回避できた。これは国民の「公共心」や「節度」がきわめて高いことと、社会的安定性への顕著な貢献を明確に示している。これ自体を見れば、端的にすばらしいことだと言えるだろう。
その一方で、「市民社会によるボトムアップの努力」のパフォーマンスが高すぎるがゆえに、政治の側にとっては大きな政治的決断を先送りさせるインセンティブとして作用してしまうというパラドックスがある。自分たちがリスクをあえて取って意思決定しなくても、国民がなんだかんだで最後は「うまくやってくれる」というほとんど確信に近い期待がある。
語弊を恐れずにいえば、今回のことも、国民が節電に協力せずに大規模停電が発生し、電力供給が滞ったことで医療機関などに深刻な人的被害が発生するような事態が起きてしまった方が、エネルギー供給問題の根本的解決には近づいただろう。なぜならその方が、時の政権に対する「政治的無策の責任」が生じるためだ。日本国民の「ボトムアップの努力」のハイパフォーマンスが意図せずして、かれらの「政治的無策の責任」の発生を毎度毎度うまく回避させてきてしまった。