北京冬季五輪が閉幕した。五輪不要論を展開する神戸親和女子大学の平尾剛さんは「五輪の商業主義化は著しく、暗澹たる気持ちになった。メダルを逃した羽生結弦選手の会見はその象徴だ。このままなら羽生選手の未来は、世間が創り上げたイメージによってつぶされてしまうかもしれない」という――。
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北京五輪で再確認したスポーツの魅力

17日間にわたって熱戦が繰り広げられた北京五輪と、10日間にわたった北京パラリンピックが閉幕した。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて1年延期された昨年の東京五輪に続く2年連続での開催に、日本国内では熱狂や食傷など温冷さまざまな視線が注がれた。

長らく続く自粛生活で気が滅入りがちで大会を待ちわびた人たちは、日本選手をはじめ全出場選手の掛け値なしに素晴らしいパフォーマンスに魅了されたことだろう。

一方、私のように五輪のあり方に懐疑のまなざしを向ける人たちは、手放しで楽しめなかったに違いない。過熱する五輪報道にいささか辟易とし、それを遠ざけて閉幕を静かに待ち続けた人もなかにはいただろう。

かくいう私は、仕事と子育ての合間にたまたまつけたテレビで競技やニュースを観る程度で、おもにインターネットで五輪関連の記事や動画を追いかけた。批判的に五輪をみるかたわらで、スポーツそのものには熱い視線を送った。

採点への不服を怒りではなくポジティブなエネルギーに変換した平野歩夢選手(男子ハーフパイプ)の静かなる闘志、また高木美帆選手(女子スピードスケート)の短中長距離にまたがるオールマイティーなパフォーマンスには、元アスリートとして震えた。大会直前のけがの影響で、周囲の期待に応えられないことがわかりながらも平静を装った小平奈緒選手(同)の立ち居振る舞いには、アスリートとしてだけでなく人としての成熟をみた。スキージャンプを観て「人が飛んでる!」と驚いた、もうすぐ4歳になる娘のリアクションに、年齢を問わずに伝わるスポーツの魅力を再確認したりもした。

スポーツが絵画なら五輪はド派手な額縁

五輪はさておき、「スポーツ」はやはりおもしろい。

仕組みとしての五輪は批判するがスポーツは楽しむ。これが私のスタイルである。

スポーツが絵画だとすれば五輪は額縁だ。絵そのものの鑑賞は楽しむが、ド派手に装飾された額縁には異論を唱える。常識外れの過剰な装飾をほどこすためにどれだけの嘘と欺瞞があり、どれほどの犠牲を払ったのか。その代償を払うことになるのは誰なのか。

絵を二の次にして、一部の人たちが金儲けのために飾りつけた額縁など不要である。金ピカに彩られた額縁が放つ禍々しい光が目眩しとなり、素直に絵を鑑賞できなくなっている現状は、決して看過できない。

五輪の醜態に囚われてスポーツの醍醐味が薄れつつある。だから私は目を凝らして絵としてのスポーツに視線を注ぐ。五輪への批判とスポーツを楽しむ態度は決して相反しない。