周囲からの過度な期待がアスリートを押しつぶす
いずれこのフィーバーは終わる。現役を引退すれば潮が引くように落ち着いてゆく。世界中から注目を浴びる舞台から下りたそのとき、羽生選手自身はなにを思うのだろう。幼いころから背負ってきた重荷をようやく下ろせると、解放感を覚えるのか。それとも得体の知れない虚無感に襲われるのだろうか。
羽生選手本人が自らを客観視できているのならそれでいい。私の単なる邪推であったと無視してくれればいい。だが、スポーツの過度な商業主義化がアスリートのアイデンティティを崩壊させかねない危険性は、もっと知られていい。
アスリートもまた、ひとりの人間である。引退後には、現役時代よりもはるかに長い人生が待っている。人生の前半に絶頂期を迎えたことが生む心の葛藤は想像以上に苦しいものだ。若かりしころに浴びた脚光はもう二度と味わえない。この現実は、引退したあとにゆっくりと、でも確実に心を削ってゆく。選手時代の功績や知名度が高いほど、世間が創り上げたイメージと本来の自分との乖離は大きくなり、抱える苦悩は深くなる。
実績を残したアスリートの引退後の足跡を、どれだけの人が知っているだろう。
スポーツの商業主義化、つまりアスリートの商品化は著しく進行している。金を生み出す存在としてアスリートが使い捨てられないよう、商品価値を高めるイメージ戦略に躍起になる人たちに節度が求められるとともに、ひとり歩きするイメージにアスリート自身が飲み込まれないためのサポート体制が急務だと、私は思う。