受験当日に筑附高に現れた悠仁さま
宮内庁は、以前からいわれていた、お茶の水附属中学と筑附高との「提携校進学制度」に出願して、学力テストの結果も含めて合格したと発表した。
しかし、この制度には、学力テストは含まれていないというのが“定説”のようだ(筑附高側は詳細について公表していない)。特別扱いで合格したといわれるのを宮内庁や秋篠宮家が嫌がったのだろうか。
筑附高の試験当日の2月13日朝、悠仁さんは1人で現れ、一般の受験生たちと並んで試験を受けた。
「日本で最も注目を集める男子生徒が、校舎へと続く長い坂を登り、一人ひっそりと門をくぐった。二十数人の報道陣が集まっていたが、ダッフルコートにパンパンのリュックを背負った彼の姿に気付いたのはごく僅か。しばらくして、現場に驚きの声が広がった」(週刊文春2月24日号より)
私がかつて碌を食んでいた講談社は、悠仁さんが上ってきた坂の下にある。地下鉄有楽町線の護国寺駅を上がった目の前で、隣が警視庁大塚警察署だ。
ゆるい上り坂を上がっていくと、筑波大学附属中前という信号がある。その右側に、中学と悠仁さんがこれから通う高校がある。
さらに歩いていくとお茶の水女子大学があり、悠仁さんの通っていたお茶の水女子大附属中学が隣接している。さらに進んで右に曲がると地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅。夕暮れ近くになると、家路へ急ぐ多くの学生たちの元気な声が護国寺駅に吸い込まれていく。
なぜ「学習院以外」を選んだのか
だが、悠仁さんが地下鉄に乗って護国寺駅から歩いてきたとは考えにくい。黒塗りのハイヤーでは目立ちすぎると考えて途中で降りたのだろうが、わざとらしさは否めない。
それが証拠に、試験が終わると、
「悠仁さまは学校を出られると、途中からお迎えの車に乗って帰宅されたという」(週刊新潮2月24日号)
このような“儀式”を行う予感はその前からあった。
週刊文春は早くから「悠仁さんは進学制度を使って筑附高に入学が決まった」と報じていたし、他誌も続いた。それに対して秋篠宮家を担当する加地隆治皇嗣職大夫が、「憶測に基づいて毎週のように報道するのはいかがなものか」という苦言を呈する文書を発表したのである。
この背景には秋篠宮家の意向があったといわれる。特に秋篠宮自身の学生時代の“挫折”があったと週刊文春が報じている。
秋篠宮は子供のころから生き物が好きで、大学で生物の研究をしたいと考えていたという。だが、学習院には生物系の学科がなかったため、「秋篠宮さまは他の大学に進学したかったが、上皇陛下が首を縦に振らなかったそうだ」(学習院関係者)。そうした苦い経験があったため、悠仁さんが今後どのような分野に関心を持ってもいいように、進学先の多い高校が望ましいと考えていたというのである。