キャッシュレスでは数字の移行にしかならない
こうした呪術的思考を踏まえれば、お賽銭が硬貨や紙幣という物質的形状を持つことは重要だ。お賽銭となる硬貨は、財布に入れて肌身離さず持ち歩いてきたものであり、呪術の発動に十分な接触を経ていると想像されるのだろう。
他方、キャッシュレスは、まさに貨幣の物質性を消去する点に意味がある。両替や集計といった手間は大幅に削減されるが、それでお賽銭を納めても抽象的な数字の移行にしかならない。自分自身の霊的コピーを神前に供えるという呪術の本質的部分が損なわれたように感じられるのではないだろうか。
スマホカメラが「観光」の感覚を変えた
それでは、呪術的思考にそぐわないお賽銭のキャッシュレス化は、今後、広がってゆくことはないのだろうか。筆者は、そうとも言えないと考えている。というのも、時代や技術と共に、私たちの呪術的な感性や思考も変化するからである。
わかりやすい例が写真である。写真は、フランスで発明されてから200年近くの歴史があるが、一般への広い普及となると比較的最近だ。そして、持ち歩きに便利な小型カメラの発売は、観光のあり方を根本から変えた。
現在では、スマホに搭載されたことで日常的に誰もがカメラを持ち歩くようになっており、特に旅や観光の際、写真を1枚も撮らない人はいないだろう。しかも、その写真の中には、ほかならぬ自分自身がその場所へ行った証拠としての写真(東京スカイツリーの前に立つ家族や自分の写真)以外にも、ネットや雑誌などで見たことがあるような写真(隅田川の向こうにそびえる東京スカイツリーの写真)が多く含まれているはずだ。
なぜ私たちは、ネットで画像検索すれば無数にヒットするような写真をわざわざ自分で撮影するのだろうか。
社会学者のジョン・アーリとヨナス・ラースンは、こうした写真撮影を「引用の儀式」と呼ぶ(『観光のまなざし』法政大学出版局)。彼らによれば、カメラが広く普及した現代では、「写真になりそうなところ」を探すのが観光であり、観光地は写真の素材のように感じられているという。
つまり、写真を撮らないと観光したと思えないように、私たちの観光の感覚が変化したというのだ。こうした観光感覚は、当然ながら、カメラが広く普及する前にはなかったものだ。