紀子さまの子育て、雅子さまの子育て
「秋篠宮家の子育ての失敗」「このような宮家から、将来の天皇が出せるのか」「紀子さまと悠仁さまとの親子密着」……。婚約騒動によって、眞子さまが学習院大学を進学先に選ばなかったこと(「もし学習院に行っていれば、眞子さまは小室さんと出会わなかったのに」)を含め、紀子さまの子育てがやり玉に挙がった。
それに対して、雅子さまは華麗な皇室外交が評価され、愛子さまがすくすくと育ち、現在学習院大学で日本文学を専攻されていることが評価されている。国民の間では、「ぜひ、愛子天皇を」という待望論も盛り上がる。雅子さまは、2019年の即位の関連行事で、大粒の涙を流されていたが、それすら「人間らしい皇后さま」という評価を受けた。雅子さまが人前で感情を露わにすることは、かつては批判の対象となっていたのに。
つきまとう「母」の役割への評価
女性に期待される、子ども、とくに男児を産むという役割では、紀子さまは圧勝した(断っておくが、不妊は女性の側に原因があるとは限らない)。しかし、子どもを産むことだけが、母の評価の対象ではない。子育てという側面で評価されれば、今度は雅子さまの圧勝のように見える。
良くも悪くも、皇室に入った女性たちは、「母」という役割の評価から逃れられない。それは実は、私たちの年代の女性たちに付きまとってきた評価でもある。だから私たちは、雅子さまや紀子さまの報道に熱狂するのではないか。
こういう話を、私が教えている大学の学生たちにすると、「皇室には関心がなかったからまったく知りませんでした」「おばさんたちは、皇室報道が好きですよね」と言う。彼ら、彼女らは、皇室にはまるで関心を持っていないことがわかる。今の若い世代には、母であることの呪縛や、女はどう生きるべきかというプレッシャーが少ないからなのか。それとも年代が上がればまた、母親であることの圧力に、彼らも直面するのだろうか。