明治政府にとって不都合だった神仏習合

なぜいま鶴岡八幡宮を歩いても、仏教につながるものをなにひとつ見ることができないのか。

日本では平安時代以来1000年にわたり、日本列島固有の神と大陸から伝わった仏教とが一体となって信仰されてきた。

だから江戸時代までは、神社の境内に神宮寺が置かれ、神前で読経が行われるのが当たり前だった。

かつては極端な話、神社の祭神がホトケであることも珍しくなかったが、明治維新を迎えると、新政府にとって神仏習合は不都合だった。

なぜなら、新しい政権は天皇親政を建前にしていて、その根拠に古事記や日本書紀の神話につながる神道を据えたかったからだ。つまり祭政一致を実現するために、神道に外来の仏教がくっついていては困るので、切り離そうとしたのだ。

こうして慶応4年(1868)3月28日、つまり江戸城が無血開城する前に、新政府はいわゆる神仏分離令(神仏判然令)を発して、神社から仏教色を排除することや、神社に仕える僧侶の復飾(還俗)を命じた。これが拡大解釈された結果、各地で寺や仏像、仏具などを破壊する廃仏毀釈きしゃくが巻き起こった。

古木材にされ、鋳つぶされ、焼き捨てられ…

もちろん、鶴岡八幡宮寺も政府の方針から逃れることはできなかった。前出の静川慈潤によれば、明治2年(1869)に十二坊の社僧はみな復飾し、その後、神奈川県庁から「仏教関係の堂宇等を速に取除くべし」との再三の督促があって、「諸堂宇は十余日間に悉く破壊せられ、古木材として売払われました」とのこと。

薬師堂前にあった大塔も消失した。幕末~明治初期に撮影(撮影=フェリックス・ベアド 画像提供=あつぎ郷土博物館)

わずか10日余りで、二束三文の古材になってしまったというのである。

特に十間四面の多宝塔は、大仏、大鳥居とならぶ鎌倉の三名物だったのに、容赦なく破壊された。その後、仁王門の仁王像は寿福寺(鎌倉市)に、薬師堂の薬師如来像や十二神将像は東京都あきる野市の新開院に、愛染堂の愛染明王像は五島美術館に、というように、各地で生きながらえている仏像や仏具もある。

一方で、徳川家光が寄進した梵鐘は鋳つぶされ、経蔵の元版一切経は浅草寺に保護されているが、ほかの経文はみな焼き捨てられたという。