兵舎生活のなかで欲した叙情的なもの
撮影所に戻ると、脚本修業をし、助監督を務め、1927年に「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」の辞令を受け、時代劇『懺悔の刃』を撮りました。しかしその完成間際に、予想外の予備役召集を受け、一部を他の監督に委ねることになります。
このため初監督作品ながら自分の作品という気がしなかったと回想しています。ちなみに最初期の小津作品7本は現存しておらず、観ることが出来ません。
予備役召集は教練中心でしたが、入隊中は佐藤春夫の詩を思い出したり〈山にいた時の煙草屋の娘のことか、或る町の或る娘のことを思ったり〉(『小津安二郎君の手紙』)していますが、特定の女性のことというより、殺伐とした兵舎生活のなかで何となく抒情的なものを欲したのでしょう。
もしかしたら記憶から引っ張り出したのは現実の思い出ではなく、シナリオ的空想だったのかもしれません。
その後、松竹蒲田撮影所の組織改変に伴い現代物に移った小津は、矢継ぎ早に映画を撮っています。多くはラブ要素のある青春コメディーでした。現存する最古の作品『学生ロマンス 若き日』(1929)はモダニズム版の『私をスキーに連れてって』みたいな作品で、小津の方がおしゃれです。
小津はこの頃、ドイツの監督エルンスト・ルビッチを好み、無声映画でも巧みに感情の機微を表現するその作風から、多くを学びました。
「女優は商品、お前らは丁稚」
小津作品の話に踏み込むと際限がないので控えますが、フィルムが現存しない『お嬢さん』(1930)はギャグとロマンと冒険を詰め込んだ画期的な作品だったそうで、続く『淑女と髯』(1931)は昭和戦後を経て今日に至る少女漫画やその映像化である〈スイーツ映画〉の王道を見事に完成させており、これだけでも小津の構成力がよくわかります。
恋愛映画が人気の時代とはいえ、すぐれたラブ・コメディをたくさん作った小津自身が、恋愛に関心がなかったとは思えないのですが、噂はともかく具体的な話は残っていません。
撮影所の製作部は徒弟制度で、社員は「女優は商品、お前らは丁稚。決して商品に手を出してはならぬ」と厳命されていたそうで、小津は自身の美意識としても、そんな真似はしたくなかったのかもしれません。もっとも監督ともなると例外なようで、池田義信監督と大女優栗島すみ子は1923年に結婚しています。
『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(1932)、『出来ごころ』(1933)、『浮草物語』(1934)が3年連続でキネマ旬報ベストワンに選ばれた小津は、押しも押されもせぬ大監督となり、見合いの話が持ち込まれますが、断っています。