高校時代は特別親しくない「ただの同級生」

UFCと総合格闘技の成長を牽引したホワイトとロレンツォは、外から見ると幼なじみであるかのようだが、彼らの深い友情は比較的、新しい。2人はラスベガスにあるローマカトリック教会系のビショップ・ゴーマン高校で出会い、共通の友人も多かったが、直接のつき合いはほとんどなかった。

「学生時代より卒業してからのほうが共通点は多かった」と、ホワイトは語る。「私は2回、退学をくらったが、ロレンツォはお手本のような生徒だった。成績優秀で、フットボールの選手で、卒業後はいくつもの大学で学んだ」

ロレンツォはサンディエゴ大学に進み、ニューヨーク大学でMBAを取得した。その後、兄のフランク3世とともに公衆電話とスロットマシンのレンタル業を始め、ラスベガス郊外の不動産売買に進出し、新しく設立した会社を父親のカジノチェーンと合併させて上場した。

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一方のホワイトは、ビショップ・ゴーマン高校を1回どころか2回、退学になった後、両親の命令でメイン州の祖母の家に引っ越した。そこで高校を卒業し、大学にもしばらく籍を置いたが卒業はしなかった。ベルボーイやボクシングのトレーナーなどさまざまな仕事を渡り歩き、ラスベガスに戻ってジムを開いた。ジムを3店舗に増やし、ボクサーのマネジメントに乗り出して、UFCとの契約でもめていたティト・オルティスとチャック・リデルのマネジャーになった。フェティータ兄弟と再会したときは、ビショップ・ゴーマン高校を退学になってから10年近く経っていた。

野蛮な総合格闘技を安全なスポーツに再生

再会したのは、ラスベガスで行われた高校時代の友人の結婚式だった。ホワイトとロレンツォは格闘技という共通の趣味で意気投合した。ロレンツォは当時、ネバダ州の格闘技を統括するネバダ州アスレチック・コミッション(NSAC)のメンバーだった。マイク・タイソンがラスベガスでイベンダー・ホリフィールドの耳をかみちぎった試合ではコミッショナーを務めた。

「マイクに、荷物をまとめて出て行けと告げた1人が私だ。総合格闘技も含めてあらゆる格闘技が、野蛮さで注目されていた時代だ」

UFCはスポーツとしてもビジネスとしても、生き残るためだけに戦っている状態だった。故ジョン・マケイン米上院議員は総合格闘技の禁止を主張する急先鋒せんぽうで、「人間の闘鶏」だと批判した。実際に禁止する州やアスレチック・コミッションが増えて、UFCはイベントの演出を見直さなければならなくなった。ペイ・パー・ビューの配信もほぼなくなり、組織の主な収入源は試合のチケットの売り上げだけになった。

選手のマネジメントをしていたホワイトは、UFCの運営会社のオーナーたちが逆境にうんざりして、フランチャイズを売却しようとしていることを知った。そこで、再会するまで疎遠だったロレンツォに話を持ちかけた。フェティータ兄弟は1カ月足らずで個人的に資金を集め、200万ドルでUFCを買収した。

「あらゆるネガティブな要素がつきまとう、おそらく全米で最悪のブランドだった」と、ロレンツォは語る。彼らの父親も歓迎しなかった。

「父はかなり保守的な人だ」と、フランクは言う。「(買収は)やめろと言われた。ロレンツォと私が父の望みに反することをしたのは、あのときだけだと思う。あのとき父の言うことをきかなくて本当によかった」

ホワイトとフェティータ兄弟は、時代から取り残されていたUFCを生まれ変わらせ、テレビ放映は数百万人の視聴者を集めるようになった。

ロレンツォのアスレチック・コミッションの人脈のおかげで、必要な改革はわかっていた。彼らは新しいルール体系を決め、体重別の階級を作り、UFCはある意味でボクシングより安全に戦えるスポーツになった。ホワイトが選手と接してきた経験も、アスリートが改革を受け入れやすくする後押しをしたことは間違いない。