ところが信雄は、朝鮮出兵のため肥前の名護屋なごや城(佐賀県唐津市)にいる秀吉のもとに出向いたのである。秀吉に許しを請うためだ。家康の進言だったとか、秀吉から招かれたなど諸説あるが、情けないことに、これを機に信雄は、秀吉の御伽衆おとぎしゅうに取り立てられることになった。

御伽衆というのは、主君に近侍して、自分の見聞や知識などを披露する役目、ようはお話し相手である。秀吉は、かつて父の臣下にあった男。しかも、自分から父祖の地を取り上げおとしめた人物だ。そんな人間の話し相手として仕えるなんて、この男には自尊心がなかったのだろうか。

石田三成に「あなたを西軍の総大将にしたい」と言われるが…

ともあれ、信雄は大和国内に1万7千石をたまわり、大名に復帰することができた。また、信雄の息子・秀雄も越前国大野(福井県大野市)に4万5千石を与えられた。ただ、その後も信雄の人生が落ちついたわけではない。

慶長5年(1600)、豊臣家が分裂して、関ケ原合戦が起こった。小牧・長久手の戦い以来、信雄は家康と親しい間柄だったので、当然、徳川の東軍に味方したかといえば、そうではなかったのだ。石田三成が「あなたを西軍の総大将にしたい」と信雄に言い寄ったらしい。その報酬は尾張一国と黄金一千枚だという。

信雄が正二位しょうにい内大臣の地位を有し、主君・秀頼の母・淀殿とは従兄妹どうしだったからだ。三成にしてみれば、そんな信雄を引き入れることで、西軍の勢力を増やそうとしたのである。「もしかしたら今度こそ自分が天下人になれるかもしれない」そう思ったところが、信雄の浅はかなところだった。

写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです

しかし、ぐずぐずしているうちに、どちらにも加担することなく、天下分け目の合戦はわずか一日で、家康の圧勝に終わってしまった。一説によれば、黄金千枚という約束が、届いたのが銀千枚だったため、三成の誠実さを疑って動かなかったという。

なお、信雄の息子・秀雄は西軍に身を投じたため、戦後、領地を没収されてしまっている。ただし、信雄には何のお咎とがめもなかった。