朝廷への謀叛に当たっても「坂東にいてほしい」
『愚管抄』によれば、上総広常は頼朝に向かい、
「どうして朝廷のことばっか、そんなにみっともないほど気にするンすか? こうして坂東にいりゃ、誰も、御所をコキ使うことなんかできゃしませんよ」
(ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ、誰カハ引ハタラカサン)
と言ったという。
頼朝はこの発言を広常の朝廷への「謀叛心」を示すものだとし、それゆえに広常を粛清したと朝廷側に述べている。だが、実際には頼朝は広常の言ったとおり、坂東にあり続け、それによって成功したことは言うまでもない。
これは、広常のみの気持ちではないだろう。御家人たちは、頼朝に自分たちと共に坂東にいることをこそ願っていたのではないか。
そもそも千葉常胤も進言したことを併せ考えれば、鎌倉を拠点とすることは、頼朝よりも、むしろ彼を担いだ御家人たちの希望であったと言えるのではないだろうか。
頼朝が鎌倉を拠点に選んだ本当の理由
頼朝は鎌倉幕府の樹立を「事の草創」(治承4年8月17日条)・「天下の草創」(文治元年12月6日条・『玉葉』文治元年12月27日条)と称している。しかし、追い詰められた末の挙兵や富士川合戦後の言動を見ると、少なくとも治承4年時点では、頼朝には自分が何を築こうとしているのか、具体的な構想があったとは思われない。
また御家人たちにしても、自分たちの望みを具体的に意識してはいなかったであろう。
朝廷の存在は当時の人々にとって絶対的な常識であり、武士たちは与えられれば喜んで官職に任官し、その栄誉に歓喜した。そのような武士たちに、朝廷打倒とか新国家樹立といった発想が浮かぶはずがない。
けれども、『愚管抄』に残された広常の言葉から、御家人たちの希望が「相対的な朝廷からの自立」であったことは、朧気ながら理解できるのではないか。
朝廷の重圧に悩みながら、お互いに抗争を繰り返していた武士たちには、団結して大集団を築くという発想すらも浮かばなかったことであろう。しかし、彼らは無意識下で、それを願っていた。だからこそ、頼朝が隅田川を越えた時、雪崩のごとく頼朝の下に結集したのではなかったか。
そして頼朝は御家人たちの潜在的な希望を汲み取り、それに添って鎌倉を拠点とし、鎌倉の町を築いたのである。