当時の人々にとって切実だった「口臭問題」
その歯学的理由を考えてみると、そもそも虫歯の原因のひとつにデンプン質がある。現代日本人はコメの粒食(粒のまま食べること)や、コムギの粉食(つまり麵・餅など)をつうじて粘着性のデンプンを摂取する傾向があり、ここに虫歯の一因がある。
だが唐代以前の食生活はそうでない。あとでのべるように、漢代人はおもにアワなどを粒食しており、それほど粘性はない。小麦の粉食もまだ多くはない。すると、ここにかれらの虫歯を抑制していた一因があったのかもしれない。
もちろん、ろくに歯もみがかずに日々を過ごしている以上、口臭もちの人もいる。口臭がひどければ、男・女ともによりつかず、恋愛・結婚・仕事にも支障が出るであろう。それゆえじっさいに戦国秦の「日書」(※16)という占いの書物には、しばしば口臭問題が取沙汰されている。
「○○日に生まれた子どもはきっと口が臭いであろう」、「○○日に結婚した場合、妻はきっと口が臭いであろう」等々。これらはおそらく出産間近の父母、もしくは結婚間近の男性にたいする占いであり、口臭が切実な問題であったことをうかがわせる。
ブレスケアを口にふくむ皇帝の側近
かりに皇帝の側近ともなれば、皇帝がそれを不快に思わぬように、いわゆるブレスケア (杜若・鶏舌香)を服用しておくほうがよい(※17)。とくに鶏舌香は、かの曹操が天才軍師諸葛亮孔明に贈ったこともある珍品で、「孔明よ、おれのそばでささやいておくれ(アヤシイ意味ではなく、助言を求めている)」という意味の贈り物であろう(※18)。
ただし、カンタンに手に入るものではなかったらしい。たとえば、ある老臣は皇帝から鶏舌香を渡され、口にふくんだところ、たいへんな苦さであった。かれは皇帝から毒薬を賜ったものと誤解し、帰宅後に家族に説明したところ、皇帝の面前でいったいどんなミスを犯したのかとみな大騒ぎした。
その後、かれの口からよい匂いがしたので、みな大笑いとなり、その老臣もようやく事態が飲み込めたという(※19)。つまりその老臣は、口が臭かったので、皇帝から鶏舌香を賜わったわけである。どうやらその老臣にとって、その服用ははじめての体験であったようである。
ちなみに、当時の美女のなかには「気は蘭の若ごとし(吐息は蘭の香り)」と評される者もおり、美女もブレスケアを使用していたことがうかがわれる。古代中国の恋人同士はキスをするので、エチケットとして必要であったのであろう。
(註)
1 『漢書』巻2恵帝紀2年春正月条。
2 『呂氏春秋』巻第22慎行察伝。
3 『後漢書』巻1光武帝紀下建武11年8月癸亥条。
4 『礼記』内則、『史記』巻105倉公列伝、張家山漢簡「引書」(第1〜7簡)。
5 『南海寄帰内法伝』巻第18朝嚼歯木。
6 松木明知「華佗の麻酔薬について(会長講演)」(『日本医史学雑誌』 第31巻第2号、1985年、170〜173頁)。
7 Hui-Lin Li, “An Archaeological and Historical Account of Cannabis in China,” Economic Botany 28, no.4 (October-December 1974): 437–448.
8 Hongen Jiang et al., Ancient Cannabis burial shroud in a Central Eurasian Cemetery. Economic Botany 70, (2016 October-December): 213-221。
9 『大正新脩大蔵経』巻16経集部所収後漢・安世高訳『仏説温室洗浴衆僧経』。
10聞一多「釈齲」(『聞一多全集』第2巻、大安、1967年、557〜558頁)。
11『漢書』巻80宣元六王淮陽王欽伝。
12『白氏長慶集』巻第10感傷二「自覚」、『白氏長慶集』巻第23律詩「病中贈南鄰覓酒」、『韓愈全集校注』(四川大学出版社、1996年、125頁)。
13『史記』巻96張丞相列伝。
14『後漢書』巻10皇后紀上明徳馬皇后条、李賢注引『方言』。
15『長沙馬王堆1号漢墓古尸研究』(文物出版社、1980年、29頁)。
16工藤元男『占いと中国古代の社会―発掘された古文献が語る』(東方書店、2011年、2〜67頁)。
17『韓非子』内儲説下。『太平御覧』巻185居処部13屏条引『漢官典職』。
18『曹操集』文集巻3与諸葛亮書。
19『太平御覧』巻219職官部17侍中条引応劭『漢官儀』。