このように信長の快適で円滑な動座を実現した「御座所」の構成要件を改めてまとめてみましょう。

「御座所」は(1)信長のための防御を伴う豪華な御殿、(2)親衛隊のための陣小屋群、(3)必要な人馬の食料・軍事物資の集積と大人数に食事をふるまえる調理施設、(4)「御座所」間をつなぐ街道や水路の整備、(5)信長一行の移動情報を先の「御座所」へ高速伝達する情報ネットワークという複合した「御座所システム」によって機能していました。

そしてこの「御座所システム」を信長のために構築した秀吉は、最前線の備中高松城から畿内まで、どこに「御座所」があり、どの街道をどう整備したかを熟知していたのです。

御座所システムが秀吉の「中国大返し」を可能にした

秀吉は、信長が大満足で備中高松城の包囲陣に到着できるよう万全の準備をしていたに違いありません。実際には信長は本能寺の変で命を落としたので、秀吉が心を込めてつくった「御座所システム」を信長が使うことはありませんでした。

しかし、この「御座所システム」が秀吉に奇跡を起こすことになったのです。

まず「御座所システム」の通信ネットワークがあって、もともと信長の動座を注視していたため、本能寺の変の情報を秀吉は誰よりも早く、正確に入手できました。光秀の使者が誤って秀吉の陣に密書を届けてしまったという伝説よりも、信長を迎えるために秀吉が構築した通信ネットワークが功を奏したと考える方が、リアリティがあるように思います。

亀田俊和、倉本一宏、千田嘉博、川戸貴史、長南政義、手嶋泰伸『新説戦乱の日本史』(SB新書)

さらに「御座所システム」は、秀吉の中国大返しそのものにも、大きな力を発揮しました。

備中高松城を後にして、わずか四日ほどで姫路までたどり着くには、街道が整備されていることはもちろん、宿泊・休憩・補給のエイドステーションが欠かせません。突然、三万人もの大軍が武器を持って飲まず食わずで陸路を高速移動しつづけるのはとても無理でした。

しかし秀吉にはすべてが揃っていたのです。信長を迎えるために整備した街道を通って駆け抜けられました。信長のためにつくった「御座所」がゆったりとした信長本隊の行軍速度に合わせた適度な間隔で街道沿いにあったので、秀吉軍の全員が快適に宿泊・休憩できました。

「御座所」には信長一行のおもてなし用に食料を集積していたので、秀吉軍の人も馬も十分な食事をとれました。「御座所システム」こそが、秀吉軍が高速で効率よく姫路まで戻ってこられた秘密の理由だったのです。

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