警察・検察の主張をサポートする法医学者を連れてくる
首を絞めて人を殺害するのと、睡眠導入剤の中毒による死では、刑事事件においてその意味合いは大きく変わる。
大野はこう話す。「首を絞める行為には明確な『殺意』があり、殺人罪で判決も重くなる傾向があり、睡眠導入剤の中毒なら『過失』だとも考えられる」と。つまり、警察と検察の見立てでは、これは殺意ある首絞め事件だということになっていた。
公判で検察側は、執刀医が行った司法解剖の鑑定書は採用しなかった。代わりに、別の法医学者に依頼し、自分たちの主張をサポートするような鑑定を採用する展開となった。実は、検察が都合のいい鑑定結果を自分たちで持ってくるのも、日本ではよくある話だという。
そこで鍵となったのは「歯」だった。大野が言う。
「執刀医の解剖所見には、確かに、遺体の歯が少しピンク色に着色していると書かれていたし、もちろんそれを示す写真もあった。これは法医学者には知られた『ピンク歯』といわれるもので、主に溺死の時などに、鬱血してヘモグロビンがやや変性して歯がピンク色になる現象がある。溺死は窒息死ですから。ただそれを拡大解釈して、言わば、逆手にとって、ピンク歯があるから窒息、すなわち、首絞めでの殺害であるとする乱暴な結論の鑑定が出てきたのです」
そして検察はそれを裁判の証拠として採用し、自分たちの主張に沿うように証拠を解釈したのである。
「これは危険ですよ。犯行について医学的な根拠を示す法医学者が、検察の都合の良い話に合わせて鑑定をするようなことがあれば、事件が作られてしまうかもしれないからです」
大野は続ける。
「外国の論文を読んでも、ピンク歯を根拠にして死因を突き詰めるというのはよくないという書き方をしているものもある。例えば、海の中で溺れると、どうしても水死体は重い頭が下の位置になるので、顔面が鬱血しやすくなるのです。それでピンク歯はできるんじゃないかと言われている。であれば、どんな遺体でも頭が少し下がっている位置なら、同じようにピンク歯になるのではないかという話になる。
この事件、もしかしたらほんとは殺したのかもしれない。だけど、被疑者はそれを語ってはいないんですね。個人的に見ても、事件としては怪しげで、ほんとは首を絞めたのかもしれない。ただその証拠として、根拠の乏しいピンク歯を使っていいのかという疑問が法医学的にはあるのです」