※本稿は、野地秩嘉『警察庁長官 知られざる警察トップの仕事と素顔』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
市民生活への危険を未然に防ぐ法律を制定
1991年に施行された暴力団対策法の正式名称は「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」。
法律の条文は長い。
「暴力団員の行う暴力的要求行為について必要な規制を行い、及び暴力団の対立抗争等による市民生活に対する危険を防止するために必要な措置を講ずるとともに、暴力団員の活動による被害の予防等に資するための民間の公益的団体の活動を促進する措置等を講ずることにより、市民生活の安全と平穏の確保を図り、もって国民の自由と権利を保護することを目的とする」
この法律は國松孝次が刑事局長だった時に成立したものだ。
國松の警察人生で、世の中にもっとも影響を与えた行政施策でもある。その法律を現場で支持したひとりの刑事がいたが、彼はのちに自殺する。
【國松】刑事局長だった当時、暴力団対策法の制定に携わりました。その時、福岡県警の捜査四課長だった古賀利治君が力になってくれました。思い出の刑事です。
組員のカップ麺や米まで押収する「ドーベルマン刑事」
「ドーベルマン刑事」と呼ばれた福岡県警の警察官。
以下、古賀のエピソードを『警察・検察VS.工藤会』「法と経済のジャーナル」(村山治)より引用する。
「暴力団にも冬の時代が来たと思い知らせる。債権取り立てなどで暴力団を利用する者も、共犯とみて逮捕することもある」と〔古賀は〕公言し、微罪でも逮捕し、暴力団事務所で見つけたインスタントラーメンや米などまで「抗争資材」として押収した。刑法以外の法律も適用して徹底的に組員を摘発する手法は「福岡方式」として全国の警察から高い評価を得た。
一方で、手続きより結果を重視するスタイルには当時でも、賛否両論があった。福岡地検時代に古賀氏と交流のあった元検事は「摘発件数は増えたが、無罪も増えた。どうして、乱暴な捜査をするのか古賀さんに尋ねたら、『九州のやくざは、退職警官を襲う。だから現役時代に徹底的に痛めつけて、そういう気が起きないようにするのだ』と話していた」という。
(中略)古賀氏は福岡県警南署長時代の94年12月28日、署長官舎のトイレで首つり自殺した。〔彼ではなく〕同署員が覚せい剤事件に絡んで事件関係者の家宅捜索令状請求に白紙調書を使っていた疑いが強まり、県警が虚偽公文書作成、同行使などの疑いで〔署員を〕捜査していた。古賀氏は「監督者として責任を感じた」という内容の遺書を残していた。(村山治『警察・検察VS.工藤会』「法と経済のジャーナル」)