過去の経験から着手が遅れたオウム真理教事件
【國松】1994年6月の松本サリン事件までオウム真理教が起こした事件はすべて地方で起きており、捜査の陣容が整いにくかった。また、警察は戦前に宗教団体を弾圧した過去があり、それに対する批判が根強かったのも、オウム真理教事件に着手するのを躊躇させた一因としてあるかもしれない。
一方で、坂本弁護士一家殺害事件(89年)を調べていた神奈川県警は94年秋には旧上九一色村(山梨県)のサティアン(オウム真理教の施設)周辺の残土を調べ、猛毒サリンを生成した残滓を検出していたんです。
95年2月には公証役場事務長監禁致死事件が東京で起こり、警視庁が捜査権を得たことで陣容が整った。オウムの一斉捜査をやろうとしたが、その矢先の3月20日、地下鉄サリン事件が起きてしまった。
優秀な医者や技術者はなぜ麻原のいいなりになったのか
警察は一生懸命やったのだが結果的に後手に回ってしまい、被害者と遺族にはほんとに申し訳ないという気持ちを持っています。それはいつまでも変わりません。
上九一色村で彼らを逮捕し、公判を経て、13人が死刑になりました(注)。一連の事件で13人が死刑になったのは、かつてない集団犯罪で、戦後最大の事件と言っていい。
※オウム真理教元代表・麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚ら7人は2018年7月6日、ほか6人は26日に刑が執行された。
大学や大学院を出た医者、理工系の技術者が麻原のいいなりになってしまったのは、社会のなかで自分たちが報われない、活躍する場がないと勝手に閉塞感を持っていたようにも感じます。
今後のことを思えば同じような組織犯罪が二度と起こらないようにするのが何より大切でしょう。幹部の証言など裁判記録を精査し、優秀な若者が麻原に洗脳されていったいきさつを明らかにして、対策を立てる。それは警察のやることではないという人もいるかも知らんが、世の中の治安を護るにはそこまでやらないといけないでしょう。
背後から撃たれ、全治1年6カ月の重傷を負う
1995年3月30日、午前8時31分頃、國松が出勤のため荒川区南千住にあった自宅マンションを出たところ、付近で待ち伏せていた男が銃を4回発砲。國松はそのうち3発腹部に受けた。すぐに日本医科大学付属病院高度救急救命センターに搬送され、一命はとりとめたが、全治1年6カ月の重傷を負った。
だが、驚異的な回復力で2カ月半後には公務に復帰している。