法医学の鑑定を巡り見解がぶつかり合った

そう言って大野は、最近公判で法医鑑定をめぐって争ったケースについて解説を始めた。

神奈川県相模原市にある墓地で、都内在住だった阿部由香利さん(事件当時=以下同=25歳)の遺体が土の中から発見されたのは2015年のことだった。

この事件は14年に阿部さんの父親が、阿部さんと阿部さんの幼い子どもである響輝ひびきちゃんがともに行方不明だと警視庁に相談をしたことで捜査が始まっていた。

警視庁捜査一課はすぐに、阿部さんの元交際相手だった佐藤一麿被告(29歳)を特定。相模原で遺体が見つかったことで、佐藤被告を逮捕した。また、佐藤被告の別の交際相手だった23歳の女性が、佐藤被告とともにレンタカーで阿部さんの遺体を運んで、墓地の空き地に掘った穴に埋める手伝いをしたとして死体遺棄容疑で逮捕された。

事件当時、佐藤被告は東京都渋谷区の高級住宅街にある実家に暮らし、仕事はアルバイト店員だったが、テレビ業界人のふりをするなど変わった言動などが報じられたり、佐藤被告とともに逮捕された23歳の元交際相手が名門女子大の出身で実家は地元・静岡では知られた豪農だったことからメディアでもセンセーショナルに取り上げられた。そんなことから、この事件を記憶している人も少なくないかもしれない。

2015年12月には、東京地裁が、阿部さんの遺体を遺棄したとして佐藤被告に懲役1年8カ月執行猶予3年の判決を下している。そして翌年の16年3月、佐藤被告は阿部さんに対する殺人罪でも起訴された。同年6月には、川崎市麻生区の畑で、1~2歳児の骨や乳歯、子どものおもちゃやおむつなどが発見され、DNA鑑定によって行方不明になっていた響輝ちゃんのものと判明している。

この事件では、佐藤被告が一度は死体遺棄を認めたが黙秘に転じ、阿部さんの殺人についても「気がついたら死んでいた」「殺したと疑われたくないので捨てた」などと供述した。つまり、殺意については完全に否定したのである。言うまでもなく、殺意があるかどうかは判決や量刑を決める上で重要な判断材料となる。

公判では、阿部さんがどのように死亡したのかについて、法医学の鑑定をめぐって見解がぶつかり合う事態となった。

薬物中毒か、首絞めか

阿部さんの遺体は、土の中から発見された時にはかなり腐乱していた。遺体は警視庁管内の法医学教室に運ばれ、司法解剖が行われた。

裁判資料などによれば、遺体は腐敗していたために死因特定は容易ではなかったが、遺体に致命的な損傷がないことから執刀医は警察に当初、「首絞め(絞殺)かもしれないが、他の死因も否定できない」と伝えていた。鑑定の死因は不詳となっている。

そのうえで、解剖後の薬毒物検査によって、ジフェンヒドラミン(睡眠導入剤の成分)が高濃度で検出されたため、「薬物中毒」、つまり、市販の睡眠導入剤を大量に服用したことによる中毒死の可能性も考えられると指摘している。逮捕された元交際相手の女性が佐藤被告に頼まれて市販の睡眠導入剤を大量に購入していたことも判明している。

多量の錠剤をのせた手のひら
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ただ警察や検察によれば、「首絞め」による殺人だと意見を述べる別の法医学者がいたという。執刀医は首絞めを主張する捜査側からのプレッシャーを感じつつも法医学者として阿部さんの遺体から得られる「メッセージ」に忠実かつ誠実に耳を傾け、考えにくい「首絞め」の可能性を殊更強調することはしなかった。

周辺捜査や事情聴取といった捜査から積み上げられる警察の見立てと、被害者の亡骸を徹底して調べることで知り得る医学的な調査の結果とが衝突する——。こんな死因をめぐるせめぎ合いが、ドラマや映画ではなく、実際に行われているとはにわかに信じ難いかもしれない。ただこうしたケースは少なからず存在する。