大阪万博でジャガイモが驚異的な値上がり

こうしてジャガイモの安定供給のめどが立った。1969年のことだ。ところが、その直後に国内のジャガイモが驚異的に値上がりする。原因は1970年に開催された大阪万博。多くの外国人が来日してフライドポテトの需要が急拡大したせいだ。ステーキの付け合わせなどによく使われた。

小池孝会長(画像提供=湖池屋)

フライドポテトといえばファストフードの定番だが、日本にマクドナルドが上陸したのは翌年の1971年。当時の日本でフライドポテトはほとんど食べられていなかった。

「親父は士幌農協と値上がり前の値段で買い付ける約束をしていましたが、相場は既に3倍。当然、農家からは文句が来ます。『相場はこんなに高いのに、なぜこんな安い値段で売らなきゃいけないんだ』と」

「太田さんとその右腕だった安村志朗さんという方が農家を説得してくれました。『農業はもっと産業化すべきである。相場に左右されることなく、毎年安定的に儲かるようにならなければならない。だから相場が上がろうが下がろうが、約束した値段で売るんだ。それが将来のためになる』と。彼らと農家のおかげで、ポテトチップスは本当の意味で量産化できたんです」

現在、ポテトチップスが年中いつでも食べられる状況があるのは、湖池屋が「機械化」と「原料の安定確保」によって達成した量産化に端を発するのだ。

「その後、中小たくさんの企業がポテトチップス業界に参入して、1974年には日本ポテトチップス協会が設立されるほどになりました。以降も親父と濵田音四郎さんはたいそう親しく交流していたと聞いています」

濵田音四郎が日本における「ポテトチップスの父」なら、それを広く世に流通させた湖池屋・小池和夫は、さしずめ「ポテトチップスの母」なのかもしれない。

【参考資料】
「いも類振興情報 No.115」一般財団法人 いも類振興会/2013年
いも類振興会(編集)『ジャガイモ事典』いも類振興会/2012年

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