おつまみ屋として創業した湖池屋

湖池屋は小池孝氏の父・和夫氏が1953年に創業した。湖池屋の「湖」は故郷である長野県の諏訪湖から。孝氏は創業の3年後、1956年に誕生する。和夫氏は戦後、和菓子屋勤めのセールスマンだった。

「独立を志したとき、甘いものは和菓子屋の競合になるのでまずかろうと考えて、しょっぱいもの、つまり酒のつまみを製造する会社として湖池屋を立ち上げました。今の本社は東京都板橋区の成増ですが、創業の地は文京区の目白台。僕もそこで生まれました」

創業初期の湖池屋本社。手前に写っている乳母車の赤ちゃんが現会長
画像提供=湖池屋
創業初期の湖池屋本社。手前に写っている乳母車の赤ちゃんが現会長

当時の日本は戦後少しずつ復興が進み、酒の需要が上がっていった時期。おつまみの売り上げも伸び盛りだったので、わざわざセールスに行かなくても、おつまみ問屋や菓子問屋のほうから買いに来てくれた。湖池屋の工場も順調に拡張していく。

「おつまみは個包装の袋詰めではなく、一斗缶に入れていました。当時のお菓子屋さんはお菓子を大きなガラスケースに入れてバラ売りしていたので、そうやって卸していたんですね。今で言うと昔ながらのせんべい屋さんみたいな感じです」

ポテチは高級バーで1皿1000円

戦後、日本に初めてポテトチップスを持ち込んだのは濱田音四郎という人物だ。ハワイに住んでいた日系二世で、現地でポテトチップス製造に携わっていた。終戦後に帰国、アメリカン・ポテトチップ社を立ち上げ、「フラ印」ブランドのポテトチップスを手作りしはじめた。

最初の取引先は米軍の施設。ポテトチップスなんて日本で誰も知らない。だからアメリカ人専用で売っていた。それがだんだん広がり、ホテルや高級なバーに卸すようになった。

「親父がポテトチップスと出会ったのもそういう店です。たまたま行ったお店でポテトチップスが出てきた。おそらく音四郎さんのつくっていたものです。戦中戦後の人は米を食べられずイモばっかり食わされてきたから、イモは代用食、まずいものだという扱いでした。ところが、食べてみるとこれがおいしい。『ジャガイモでもこんなにおいしくなるんだ!』とものすごく感動したそうです」

「ただ、ホテルやバーで出されるだけあって、値段がすごく高かった。今の物価に換算すると1皿1000円くらい。だけど親父は思ったんですよ。こんなにおいしいものを、もしお菓子くらいの値段で大量に作ることができたら、すごく売れるだろうって。しかも原料のジャガイモはいっぱいある」

戦中戦後、代用食としてのジャガイモは作付面積が増大した。しかし食糧事情が回復するにつれジャガイモは余り始めていたのだ。