小学校でのあだ名は“ポテトチップス”

しかし口コミで少しずつ広まり、ある時から一気に売れ始める。その一助となったのがラジオ宣伝だ。

「うちくらいの規模では珍しかったと思います。のちにテレビCMも始めますが、当時お菓子メーカーでやっていたのは明治さんや森永さんといった大手くらい。マスコミを使ったのは早かったんですよ。そのあたりは優秀なセールスマンだった親父の才覚ですかね」

和夫氏が初めて食べた時の「ジャガイモでもこんなにおいしくなるんだ!」という感動を多くの人が体験し、とりこになったのだ。

当時、小池家には家中にポテトチップスがあったという。孝氏は「幼少期の僕は文字通り、のり塩と“住んでいた”」「小学校でのあだ名は“ポテトチップス”でした」と、笑いながら当時を振り返る。

ところが、売れ始めると今度は生産が追いつかなくなった。丸釜と呼ばれる揚げ釜に、スライスしたジャガイモをドサっと入れて、3分くらいたったら手作業で引き上げる。その繰り返しでは量産に限度があるのだ。

ポテトチップスを手揚げしていた当時の写真
画像提供=湖池屋

「だから丸釜をどんどん増設していくんです。4台が8台、8台が16台って。でもそれだと工場がすぐいっぱいになってしまう。本家のアメリカではどうしてるんだろうと、親父はポテトチップス工場を見せてもらうためアメリカに渡ったんですよ。なんとかツテをたどって」

見よう見まねで手作りしたオートフライヤー

見学先にあったのが「オートフライヤー」と呼ばれる揚げ機だ。ベルトコンベヤーの要領でスライスしたジャガイモを次々と揚げ油に送り込み、次々と引き上げてゆく。

「親父は『プールみたいな釜にポテトチップが流れていくんだ』って表現をしていました。その機械を導入すれば生産量は何十倍にもなる。ただ、当時は1ドル360円の時代ですからとても買えない。売り上げが吹っ飛んでしまいます。で、自分で作ろうと考えた」

帰国した和夫氏は、己の記憶と手書きのメモ、撮影が許された場所の写真だけを頼りに、機械工と一緒に一からオートフライヤーの設計を始める。もちろん図面などない。

「『釜の長さはこれくらい、深さはこれくらい、こんな感じで』ってね。皮むき機なんかも、ほかの野菜で使ってるやつを改造したりして。ところが、作ってみても全然ダメなんですよ。プール状の釜をジャガイモが流れながら揚がっていくんですけど、流れの右側が焦げて、左側は生だったりする。流れるスピードが左右で違ってるんです。だから人間が横についていて、流れが早すぎたら押し戻す。人力で速度コントロールしていました」