「悪いことをしないから気にしない」は通用するか

異論その2:監視は安全を守るよい仕組みでは?

もう一つの異論としてよく聞くのが、監視(防犯)カメラで顔情報が記録されたとしても「悪いことをしているわけではないから気にしない」「悪いことをしたい人が気にするのではないか」といった善意の意見だ。実際、犯罪が多発する国々では顔認識技術での監視で安全が向上し支持が集まっている。

安全が確保されていない社会では肯定的評価が多いのは肯けよう。だが、先進国ではこうした評価とは異なった考え方から顔認識問題を捉えようとしている。

プライバシー研究の第一人者で米国ジョージタウン大学教授のダニエル・ソロブ氏は、“監視されても気にしない”という善意の捉え方について2つ大事なポイントを指摘している。

ひとつは、監視が人々の行動や表現を萎縮させる危険性が高いということだ。その危険性は、ある市民の行動や表現が政治的なメッセージを帯びている場合に特に顕著になると考えられる。

権力者は必ず自分たちに対する異議申し立てを行う者たちを把握しておきたい誘惑に駆られる。

例えば、東ドイツには隣人を監視する仕組み(通称「シュタージ」)が体制の中に組み込まれていた。社会主義体制が崩壊した後、この仕組みに携わっていた人々が報復されたり社会的に差別されたりしたことは有名である。

つまり、監視とはあなたと監視者の間の問題ではなく、監視者が好まないような人々と監視者の間の問題なのだ。だから、監視されても自分は困らないという善意の考え方は、監視の対象となる可能性のある市民とそうでない市民の分断に繋がる。

国家安全法を導入し反政府的言論を取り締まっている香港では、市民による通報が10万件も寄せられているという。香港市民の分断が始まっているわけだ。これは監視したい側には嬉しい状態と言えるだろう。

監視技術や顔認証問題を研究する杏林大学の尾崎愛美氏も、こうした点をフェアネス(公平性)という観点から捉えておく必要を指摘している。監視問題はプライバシーと対置されることが多かったが、公平性という民主主義社会で重要な価値が侵されることに気づくべきだろう。

監視活動が“監視”されなくなる

ふたつは、監視が往々にして「野放し」となる危険性がある点だ。監視そのものが自己目的化してしまい、監視対象の選び方が適切か、記録はいつまで保存されるのか、どんな目的で利用されるのかなど、全く規制されないままとなる。

全体主義国家が監視を好むのは珍しくないが、その恐ろしさは監視そのものよりも監視活動が“監視”されないことだ。監視システムを持つとき、その説明責任と透明性は不可分でなければならない。第一の点とも関係するが、誰が監視の対象となっているか、そこに差別性や政治的な意図などが隠されていないかを確認できるようにすべきだ。

日本でも、中国のように街の隅々にまで顔認識技術を組み込んだカメラを設置した社会を構築するのかどうかを考える前に、ソロブ氏の問いかけを振り返っておく必要があるだろう。