戦争で焼け太りした新聞各社

それにしても新聞事業例が公布され80年が経とうとしているというのに、一県一紙体制は、現在も継続しています。

それはなぜなのでしょうか。

確かに軍部による「言論統制の象徴」であったものの、同時に新聞側にメリットが存在したためです。

戦前期の新聞販売は、ライバルとなるマスコミがないためにとにかく売れていました。

とはいえ、①全国紙どうし ②地方紙どうし ③全国紙と地方紙——という三重構造の競争は存在していました。

しかし、一県一紙が出来上がった結果どうなったでしょう。

戦時下ということで全国紙、地方紙、ともに用紙、インクの優先供与などの特権を政府から供与され、現在に至る企業としての財政基盤を整備しました。

さらには、地方紙どうしの競争はなくなり、地方紙は統合に拠る資本力の強化で全国紙に対抗できる体力を持つことになりました。

つまり新聞は押し並べて戦争で「焼け太り」し、さらに戦後も太り続けたのです。これが戦後、新聞が座り続けた、ふかふかの座布団の正体です。

このため戦後に、各新聞社は統合元の状態に戻ることをしなかったのです。それはいまも続いています。

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事実を社史で書かず隠蔽する新聞社

新聞各社は戦後になって、さまざまな社史を編纂へんさんしていますが、そこで書かれているものの多くは、権力に弾圧された「筆禍」や「特ダネ」「部数増加」のエピソードです。

自らの経営基盤を確立した一県一紙についての言及はわずかで、そこに至る経緯については時にじ曲げられて伝えられることもしばしばです。

例えば、4社の統合で生まれた北陸のとある地方紙は、創刊に際し特高警察の警部補を主幹として招き入れています。

このことは戦後作られた2冊の社史(80年史、100年史)にも記されているのですが、80年史では、その警部補の実名を挙げ「功労者」とたたえながら、なぜか100年史は「強権を持つ特高」「社内でにらみをきかして」などと、表現を180度変えています。

さらに、その後に作られたでは名前すら示していません。

これは特権を享受したという事実を隠蔽しようという意図、あるいはそのことに無自覚なためと推測されます。