男女不平等がデフォルトだという誤った認識
女性への暴力について考えるとき、男性はまず、自分が経験し得ないことをいかに想像するかが重要になってきます。自分より腕力で勝っている者が自分に暴力を振るってくるかもしれない――その恐怖を想像し、理解できるかどうか。もしこれを男性全員が理解できていれば、擁護論など起こらないはずなのです。
擁護論の根底には、女性蔑視や女性嫌悪がある可能性もありますが、それ以上に大きいのは、今の社会に存在する男女不平等を「デフォルト(初期設定)」だと思っている可能性です。
女性が不平等に扱われている場面は、女性であることを理由とした暴力だけでなく、賃金格差や家事育児負担など枚挙にいとまがありません。でも、この状態を不平等ではなく普通だと思っている男性は意外に多いのです。
「区別であって差別ではない」という誤解
こうした、完全に間違った認識の人を見るたび、僕は「やっぱりジェンダーという言葉はまだあまり理解されていないんだな」とがっかりしてしまいます。僕たちジェンダー研究者は、男らしさや女らしさは社会的につくられたものであり、それがジェンダー問題の本質だと考えているのですが、まるで逆の考え方をしている人も少なくありません。
代表的なのは、男らしさや女らしさは男女それぞれが生まれ持ったものであり、その違いは人間の本質的なものだという考え方です。中には、女性は男性をケアすべき存在だと思っている人もいます。
彼らにとってはこれが社会のデフォルトなのです。男女の違いは人間の本質なのだから、不平等とか女性差別とかさわぎたてて無理に変えるべきではないと。こうした人たちがジェンダー問題に関してよく言う言葉が、「男女を分けて考えることは区別であって差別ではない」というものです。
しかし、それは事実ではありません。このコロナ禍では、日本社会がいかに男性中心であるか、そしていかに女性を無視してきたかが明らかになりました。
学校が休校になったとき、子どもの面倒を見るために仕事を休まざるを得なかったのは圧倒的に女性でした。感染の不安があっても出勤せざるを得なかったエッセンシャルワーカーも、その多くは女性でした。誰かがやらなければならない育児やケアの仕事の多くをいかに女性が担っているか、それがコロナ禍であぶり出されたのです。