この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるのではないか

これが長崎大学への講演につながっていったように、私には思われる。私は立花が恐れていたのは、この社会が「体験」から何も学ばないという怠慢ではなく、この社会は形を変えて同じ誤謬を重ねる「習性」があるという不安ではなかったろうか、という感がしてならないのである。

立花隆『立花隆 最後に語り伝えたいこと』(中央公論新社)

立花の言動は一次的継承を語ることで、歴史の継承が戦争体験者が一人もいなくなった時代に知性だけで語ることによる歪みを正そうとしたのかもしれない。彼自身があの戦争の愚かしさと一線を引いていた世代の感性と知性の両輪を信頼し、それを歴史に刻もうとしていたのかもしれない。

私は立花よりも、その一族と会い、知性の刺激を受けてきた。立花との対話を思い出すと会った回数は少ないにせよ、3時間も4時間もの対話を交わしていた時に彼のイントネーションに、あれは水戸の訛りだろうか、あるいは長崎のなごりだろうか、と窺える時があった。私にも北海道のイントネーションがあっただろう。がん患者の体験を持つ私たちは、死について生育地の訛りを交えて驚くほど淡々と向き合っていることを確認した。同年代のトップランクの頭脳と会話しているな、との思い出が懐かしい。

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