ジャーナリスト・評論家の立花隆さんは「戦争」をどう捉えていたのか。このほど大江健三郎さんとの対話と長崎大学での講演を収録した『立花隆 最後に語り伝えたいこと』が発売された。同書に収録されているノンフィクション作家・保阪正康さんの解説を一部紹介しよう――。

※本稿は、立花隆『立花隆 最後に語り伝えたいこと』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

75回目の終戦記念日 武道館で戦没者追悼式
写真=アフロ
75回目の終戦記念日 武道館で戦没者追悼式=2020年8月17日

戦後民主主義教育を受けた「第1期生」としての責務

私と立花は6カ月ほど私が早くに生まれているために、小学校教育は1年私が早かった。私は昭和21(1946)年4月に国民学校に入学した。この年はまだ国民学校と言っていたのである。北海道の人口2万人余の町の小学校であったが、まだ教育制度も、教育環境も、昭和20年4月の頃と変わりなく、変わったのは教育内容であった。いわゆる戦後民主主義教育の始まりであった。

私たちは、ミンシュシュギという語を最初に習った。昭和21年はまだカタカナから学んだのである。立花は翌22年に小学校に入学したことになる。この年4月から教育制度は改まり、名称も小学校となり、すべての教科書も揃うようになった。新制度下の第1期生といえば、やはり立花の世代になるのであろう。すでに彼も書き、話している通りだが、しかし私の年代は実質的な第1期生というのは我々の年代だと自負している。戦争が終わったとはいえ、制度のもとでの第1期生と教育内容の新しい理念のもとでの第1期生、1年違いとはいえ、私と立花との年代の差にはそのズレが示されている。そのズレをただすのが戦争教育への徹底した批判だった。それは三つの歴史的意味をもっているはずであった。

一、我々の年代が「戦争」の批判を行い、その誤りを継承するのは歴史的責務である
二、あの戦争を選択した責任と批判は明確な論理と具体的事実で指摘するべきである
三、日本社会から戦争体験者が全くいなくなったときに、日本人は戦争否定の論理は確立しえているだろうか

札幌で開かれたシンポジウムでの示唆に富む話

立花の戦争批判、そして日本社会の将来についての論点と分析もこのような視点に基づいていると私が理解したのは平成21(2009)年であった。私の出身地・札幌でシンポジウムが開かれることになり、私が人選などを担当し、北海道から近現代史の視点を全国に発信しようということになった。私は半藤一利と立花に連絡を取り、出席をお願いした。2人とも快く応じてくれた。そのシンポジウムで、立花は私の決めたテーマに合わせてくれたのか、日本の将来に極めて示唆に富む話を感情をこめて説いた。

私と半藤はいかに昭和史の教訓を次代に語っていくべきか、そういう話であった。ちょうどその頃は3人とも大学に講座を持っていたのだが、私と半藤はその体験を通じてどういうことをどのようにして語り継いでいくべきか、そういう話になった。3人がそれぞれ30分ずつ講演を行い、そのあと休憩を挟んで1時間半ほどシンポジウムを続けるというのが、約束であった。立花は話し出すと、特に興がのると時間を忘れてしまうので、私と半藤はそれぞれ20分話すことにして、2人の削った時間の20分を立花に回すと決めた。50分あれば、彼の講演も終わるだろうと予測したのであった。しかし立花は話をすべて伝えたかったのか、50分ほど過ぎても終わらない。結局1時間を過ぎても終わらなかった。