戦争体験を自らの身体から離して客体化する「三次的継承」

一般的には、戦争体験を語るには自らの身体的、社会的体験を語るのが普通であり、そのことによって「体験の継承」という言い方で括られていく。あえていえば「一次的継承」という表現で語ってもいいかもしれない。俗に言う継承はこのような理解であろう。さてこれとは別に他者の体験を聞き取り、それを語り継ぐ「二次的継承」という手法がある。むろんこれは私なりの用い方であり、すべてをうまく捉えているとは思わないが、こうした分け方をしていかないと歴史の継承という意味は散漫になってしまう。

そのほかに「三次的継承」があると考えてきた。それは体験の教訓化、あるいは継承の社会化ともいうべき内容である。戦争体験を自らの身体から離して客体化するのである。一次的継承を感性という語で語るなら、三次的継承は知性とか理性ということになろうか。付け加えておくが、戦争体験はないが、体験を聞く、読むなどで確かめ、それを語り継ぐ前述の二次的継承は必然的に三次的継承の要素を取り入れていなければ普遍性を失ってしまうことになる。

「三次的継承」から「一次的継承」に目を移すプロセス

私が、昭和史や太平洋戦争を語り継ごうと志しているのは、「一次的継承」「二次的継承」から「三次的継承」までを踏まえてと考えているのだが、どうしても一次的継承、二次的継承が軸になり、三次的継承は主ではなく、従という姿勢になってしまう。私の見る限りほとんどは一次的継承を語り、その結論として「戦争は嫌です」「こんな非人間的所業はありません」と結論づける。その方程式のような問答がこの国の平常の姿である。立花はそうではなく、三次的継承を初めに持ってきて、それを説く。そして一次的継承に目を移す。私などとは異なってかなり知性的、理性的なプロセスを辿っている。

立花は、自らの戦争体験を土台に据えるにせよそこから人類の、あるいは地球規模の、そしてとうとう科学によって身を滅ぼすような兵器を作り上げてしまった我々の時代が、どのように変転するのかに、知的に興味を持っている。その関心は自らの体験の一部が拡大していった末に辿り着いたのである。一般には感性から知性へ、と移行するが、立花は感性はきっかけで、知性が二重、三重に拡大していき、そして感性が時に知性をさらに押し上げるといった役割を果たしている。

宇宙の惑星地球
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