どのように感じているかが「本当の自分」

それでは、傷ついた私の経験談は、「私」という存在自体を見せてくれる話だろうか。時にはそうであるが、そうでない時のほうが多い。私が会う人の多くは、「私は幼い時、母から愛してもらえなかった」とか「私には、典型的な次男次女コンプレックスがある」のように、自分が心に負った傷の話をするが、大抵それは、以前かかったカウンセラーから聞いたり、心理分析の本から得たりした知識をそのまま再生しているだけだったりする。私という存在についての話は、そのように固定化されたものではなく、もっと柔軟に形を変えていくものだ。

たとえば、幼い時から親に殴られて生きてきた人が、誰にも言えなかった過去を打ち明けるのは、まだ存在自体についての話といえない。親に叩かれて、その時感じた無力感や羞恥心についての話が、その人の存在自体により近い話である。家庭内暴力に苦しめられた子どもが覚える感情は、成長しながら怒りや無感覚などへと、いくらでも変わりうる類いのものだ。

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そのような感情を交えて話すことができるなら、それは存在自体について語っていると言えるだろう。私の傷の内容よりも、私の傷に対して私がどのように感じているかが重要なのだ。私の傷が「私」なのではなく、傷を負った私の気持ちと、そこに現れた態度が、「本当の自分」により近いのである。

私の感情や気持ちは、「私」という存在の核であると同時に、そこへ至る入り口でもある。感情を通して人は、率直な自分という存在に出会うことができる。感情を通して人は、自分の存在にぴったりと寄り添うことができる。自分がどんな感情を抱いているのかに敏感であれば、根源的な「私」としっかり向き合える。「本当の私」が鮮明に浮かび上がることで、初めて人は、自分の人生を堂々と生きられるようになるのだ。

苦しみには忠告や助言はいらない

自分以外の誰かが語る苦しい胸のうちや心の傷、葛藤などに対して、「忠告、助言、評価、判断(忠・助・評・判)」をしてはいけない。それらは、話の内容を表面的に捉え、相手の立場をたいして考えずに勝手なコメントをしているにすぎないからだ。状況の奥にある核心に思いが至らないただのコメントは、相手の心をさらに深く傷つけることになるだろう。

ところが残念なことに、私たちの日常の言葉の大部分が、「忠助評判」なのである。

「そのような考えは捨てろ。あなたにとっていいことはひとつもない」(忠告と助言)
「そうなれるよう、あなたはもっと熱心に学ぶ姿勢を見せるべきだ」(忠告と助言)
「そのことを、もっと肯定的に捉えるべきだ」(忠告と助言)
「それは、あなたのことを愛するがゆえの発言だと思う」(評価と判断)
「あなたがあんまり敏感すぎるから、そういうふうに考えてしまうのではないか」(評価と判断)
「男なんてみんな似たようなものよ、特別な人なんてどこにもいない」(忠助評判)

悩みの大小にかぎらず、また、相談相手が誰であれ、たとえそれが専門のカウンセラーであっても、ほとんどの人のやっていることが、こうした「忠助評判」である。すがるような思いで友だちに悩みを打ち明けても、評判の本に目を通しても、出てくるのは「忠助評判」ばかり。それが役立つと思っているわけではない。他に言えることがないから、そうしているだけである。

誰かの苦痛と向き合った時、人は言葉を失う。そこで何もしないよりはましという理由から、「忠助評判」の言葉でも投げてみようかとなるのだ。これでは心の傷が、かえって悪化するだけだろう。