あきらめないことを美化する傾向は危険

一般的に「あきらめる」には、無念さ、苦しさ、みじめさ、挫折、夢破れて撤退、といった苦渋に満ちた敗北のイメージがあります。

また「あきらめた人」には、無能、意志が弱い、根性なし、無責任、などというダメ人間のイメージがあります。

一方、「継続は力なり」「あきらめたらそこで試合終了だよ」「石の上にも3年」「初志貫徹」などの言葉が私たちを縛ります。努力という名の宗教が、社会的な圧力をかけているようにすら感じます。

あきらめずに成し遂げたという美談ばかりが強調され、あきらめて大成したという話はあまり出てこないように、とくに日本では「あきらめないこと」「がんばれば報われる」という価値観が主流です。

それでがんじがらめになったり、行き詰まったり、先行きが見えなくなったり、プレッシャーに悩まされたりすることは、おそらく多くの人が経験してきていると思います。

無駄な努力に終止符を打つ

しかし富裕層が持つ「あきらめる」はちょっと違います。

「あきらめる」とは「効率の悪さへの自覚」であり、無駄な努力に終止符を打つことです。

そう自覚するためには、自分の見栄やプライド、固定観念を排して機動的かつ柔軟に認識する必要があります。がんばることや継続することは手段であって目的ではないことに気づける力。その目的すらも、もっと先にある真の目的に合致しているか、そのつど点検できる力です。

つまり彼らは事業を投げ出したのではなく、「あきらめて」「方向転換した」のです。

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投げ出すことは単に自暴自棄、思考停止による責任放棄ですが、あきらめることは優先順位をつけて見切りをつけることです。

「あきらめる」というのは、もとは仏教用語で、「明らかにする」が語源だという説を聞いたことがあります。挫折や敗北、軽蔑の対象という意味ではなかったようです。

つまりあきらめるとは、執着からの解放であり気持ちを切り替えること、自分にとって大切でないものを捨て、より大切なものを選ぶ決断術というわけです。